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2016年1月29日金曜日

理解は宗教であり、分かったは再検討しなければならぬ

 
 宗教は狂っていると人は言う。
 
 しかし、かつて存在した複数の人類の中で、宗教的遺物を残したのはただ一種類。我々、ホモ・サピエンスのみであった。
 
 ∧∧
( ‥)宗教が狂っていると
    言うのであれば
    あなたがたは狂ったサルである
 
  (‥ )あまたいた人類種の中でも
      我々は特異な
      狂った種族なのだ
      狂った我々だけが
      勝ち残って
      他の正気な人類はすべて
      滅ぼされた
 
 なんということだろう。正気を自認しておきながら、実のところ宗教と狂気は我々種族の特徴に他ならぬ。
 
 種族の特徴から逃れられる者がいるか?
 
 いや、いない
 
 いるにしてもそれこそがむしろ狂人だ。
 
 ∧∧
(‥ )まともな人間こそが
\‐  狂っているのである
    少なくとも人類の系統から
    考えれば
    狂っているのである
 
  (‥ )だとしたら
      宗教は狂っていると
      断じている人間も
      実は狂っているわけだ
 
 宗教を否定する人間は、当然ながら、宗教を信じる人間と同じ狂気を共有している。同じ人間だ。当たり前の結論であろう?
 
 なれば、単に狂気の表現が違うので、お互いを狂っている不道徳な人間とみなしている。それだけのことなのだろう。
 
 ∧∧
( ‥)宗教を否定する人間は
    どう狂っているのか?
 
  (‥ )宗教は論理的じゃない
      とか
      宗教は科学的じゃない
      とか
      宗教は科学によって
      否定されたと
      彼らは言う
 
 彼らの言う科学は科学ではない。ただの論理と証明だ。
 
 一方、実際のところ宗教は論理的である。単に前提が”神は存在する”からスタートしているにすぎない。
 
 神の存在を公理とすれば、公理から導きだされた定理はすべて神の存在を証明するものとなる。
 
 ∧∧
(‥ )反対に
\‐  神の非存在を公理とすれば
    神の存在を否定する定理のみが
    証明される
 
  (‥ )まあようするにこれ
      宗教戦争だな
 
 宗教は論理的でないし、科学は神を否定した。そう断じることは科学でもなく、単なる宗教であった。
 
 この戦いは、眼鏡っ娘は眼鏡を外した時が萌えなのか外さないのが萌えなのか? と同じ程度の争いでしかないが、当人たちはしごく真面目である。
 
 ∧∧
(‥ )宗教を否定する人は
\‐  神の非存在を
    公理とした論理体系を
    信じているにすぎない
 
  (‥ )プラトンと同じ誤謬だな
      自分が信じる物事を
      公理と見なし
      そこから証明される定理を
      真理であると見誤った
 
 そんなもの、自分の偏見から偏見を出力しているだけでしかないのだが、彼は大真面目であった。
 
 同じように、宗教を否定する人間も自分の偏見を出力して、それが真理と酔いしれているだけにすぎぬ。
 
 ただ思い込みと強い固執。つまり宗教だ。
 
 ∧∧
( ‥)しょせんは狂えるサルである
 
  (‥ )宗教をいくら否定しても
      我々の種族としての
      制約からは逃れられぬ
 
 愚にもつかないことである。

 だがこれは、極めて重要なのだ。なぜかというに、これは、

 我々が信じて疑わない理解
 
 それは一見すると宗教でもなんでもないのだが、

 それらの理解、これらのほとんどが、根拠の無い思い込みでしかない事を示している。
 
 ∧∧
(‥ )種族的に思考が
\‐  宗教的に固定されていると
    した場合
    すべての理解が実は
    根無し草ということに
    なるのである
 
  (‥ )宗教を否定する以前にだな
      俺たちは自分の理解を
      全部再検討しなければ
      ならぬのだ
 
 可能な限り。
 
 ∧∧
( ‥)でも疲れたね
 
  (‥ )今の俺は
      頭がぱっぱらぱーですよ
      
 
 名詞も人名もまともに出てこない。まるで脳内がどんよりとした霧に包まれたがごとき有り様。原稿を読み直し。誤字脱字を直すには、今、あまりに荷が重い。
 
 

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