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2014年5月16日金曜日

まあ、〆切がある以上、それは無理だよね

 
 原発ぱーんからしばらくして、子供たちに腫瘍が見られた、という報告を、その人は舞い上がるように取り上げた。
 
 そら見たことか! と
 
 ∧∧
(‥ )でもそれって、比較がないと
\‐  意味のないことである
 
  (‥ )比較が無いから
      そのままでは
      意味の無い報告に彼が
      飛びついたのを見た時
      ああ、この人は
      因果関係の推論が
      出来ない人なんだな、
      ということは
      分かったな
 
 
 彼はまた吠えるように書き上げる。日本のマスコミは放射能汚染の悲惨な状況をまったく報道しないのであると。だが海外のマスコミを見よ! 海外のテレビの問題意識を見よ、と
 
 だがしかし、ここには奇妙なことに、いや当然のことに、やはり統計的な数字がまったくもって欠けている。そこにあるのは問題意識だけだ。
 
 ようするに、意識、意識、意識せよ、という話しかそこにはない。確信は出てくるが、論証が全然見当たらないのだ。
 
 つまるところ、いわゆる意識高い系の話であり、言葉の連呼でしかないと言える。
 
 ∧∧
(‥ )それに海外のマスコミと
\‐  言われましてもね
 
  (‥ )日本のマスコミも
      海外のマスコミも
      それはただの人間だよ
     
 
 物事を概念で理解し、確信を持ち、論理的にしか考えられない、ただの普通の人間だ。
 
 ∧∧
( ‥)でも因果関係を論ずるには
    それでは駄目だ
 
  ( ‥)そして因果関係の論証が
    ‐□ 出来ない時
      人は論証を放棄し
      確信に走るのだ
 
 あるいは義務や、かくあるべし、という信念に走りたがる。論証などという、必要だけども地味でめんどくさいことは誰でも無視したいものである。
 
 実際、論証に手間をかけると原稿が足りなくなるか、あるいは作業が遅くなる。これは致命的だ。
 
 端的に言ってしまうと、マスコミにとって、論証という行為は原理的に不可能であると言えば良い。
 
 例えばの話、論証を含めて記事全体をうまく2000文字以内に収められるか? そういうことでもある。
 
 これは簡単に見えて実は非常に難しい。普通の人間ではまず無理な話だ。やるにして重労である。手間がかかりすぎるし、時間がそもそもない。原稿の〆切は長くても週明けなのだから。
 
 ∧∧
(‥ )そうなると、人は
\‐  論証ではなくて
    確信に走るようになる
 
  (‥ )つまり、
      信念によって言論の自由を
      行使しようとする
      だが、前にも述べたように
      言論の自由の先にあるのは
      どの見解が妥当か?
      という論証の話なんだよね
 
 インテリやマスコミ、知識人というやからが抱える最大の問題がここにある。彼らには確信と信念しかなく、論証ができない。だから妥当性の話になった時、その発言の根拠を問われた時、彼らは言論の自由、マスコミの義務、としか言えなくなってしまう。
 
 これはhilihiliのhilihili: 考えてみれば自由って、それ自体がすでに自由ではないよねの続き
 
 
 

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