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2018年12月22日土曜日

どのフィクションをあなたは推しますか?

 
 ネットのある人が曰く
 
 なぜ左翼は日本国紀のようなフィクションを恐れるか? それは左翼自身が資本論というフィクションを使って行動を起こしたからである。
 
 
 ∧∧
(‥ )だそうです
\‐ 
 
  (‥ )ははっ
      言い得て妙だな
 
 =>https://twitter.com/search?l=&q=%E7%99%BE%E7%94%B0%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%81%8C%E3%83%8D%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%A8%E3%81%AE%E7%B5%8C%E5%85%B8%E3%81%AB&src=typd&lang=ja
 
 
 確かに言われる通りだ。人間の熱狂行動の根拠が事実である必要はない。例えばの話、イエスが処刑の後、蘇ったという聖書の一部記述。これは他宗教の人間からすれば単なる物語でしかない。

 というかもっと露骨にいうとあれ、ローマの建国神話と同じだ。それを踏まえれば、キリスト復活は当時流布していた神話の焼き直しだろう。
 
 ∧∧
( ‥)だがイエスが
    皆の罪を背負って死に
    そして復活して神のもとへ
    帰還したという神話は
    信者を奮い立たせるに
    十分なのである
 
  ( ‥)フィクションは
    ‐/ 十分に力となる
      資本論もフィクションだが
      暴力革命と粛清の口実に
      なったし
      それを踏まえれば
      日本国紀が力を持つことも
      あるだろうな
 
 とはいえしかし、両者は等価ではないだろう。

 難解な内容であり、なおかつ現実世界にエデンの園到来を保証する資本論。これは無駄に頭の良い人間の脳を高揚感で麻痺させる危険な書物だ。頭の良い人間は少数派ゆえに多数派を憎み、多数派が支配する現社会の破壊と自分たちの独裁を目論む。そんな彼らの脳を高揚感で満たしたらどうなるか?
 
 資本論を読んだ頭の良い人間は高揚感のままに彼らが憎む多数派を打倒し、独裁を目論み、粛清を行うだろう。そしてそれは必ず堕落した貴族の横暴という結果に行き着く。事実、マルクス主義国家はどれも独裁制になり、そうなった。
 
 反対に、日本国紀にそういう危険性はないだろう。ああいう本の読者は普通の人々。つまり、賢い人間が愚民どもと馬鹿にする無数の人々だろう。
 
 こういう多くの普通の人は、

 今の居場所は十分に素晴らしい根拠を持っている
 
 だからこの場所を大切にして維持しなさい

 こう言われるだけで十分だ。

 そして維持を望む以上、そこに独裁制はなく革命はなく、粛清もない。
 
 ∧∧
(‥ )でもそれこそが賢い人にとって
\‐  不愉快なことなのだよね
 
  (‥ )多数派が運営する社会
     革命のない社会
     ゆるやかな変化の社会
     粛清のない社会
      これは
      頭の良い少数派にとって
     自分たちの発言権がなく
     自分たちの権利を確保できず
     自分たちが復讐できない社会
      のことだからな
 
 つまるところ、復讐心に燃える賢い人間にとって、これは死刑宣告に他ならない。彼らは忘れられないのだ。かつて学校のクラスの中でヤンキーに殴られ、オタクからは、お前気取った奴だなあ...、と苦言を言われた過去から逃れらない。

 なるほど、それを考えれば、賢い人間たちが日本国紀に怒り心頭となり、口汚く罵るのは当然か。
 
 ∧∧
(‥ )なんだ
\‐  それじゃあこの争いは
    どのフィクションを推すのか
    推しを巡る戦いか
 
  (‥ )一応は文献の読み方や
      引用の仕方
      結論の妥当性や整合性を
      どう判断するか
      そういう体裁をとっては
      いるけどね
      究極的には推しをめぐる
      戦いだよな
 
 
 実際、文献の読み方、引用、結論の妥当性と整合性をめぐる戦いであるのなら、議論は、あるいは指摘はもっと冷淡な形式をとる。

 日本国紀をめぐる今回の争いはそれだけで説明できるようなものではなかろう。
      
      
  
 

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