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2015年1月20日火曜日

公理といっても、それは認識論的に恣意的に決めたでしょ疑惑

 
 ∧∧
(‥ )文章を分かりやすく書け
\‐  ただし
    分かりやすい嘘は禁止
 
  (‥ )専門用語は使うな
      使うとしても
      1回の説明に1語のみ
      なおかつ使用した用語は
      必ず説明しろ
      ただし人間が
      一度に理解できる文字数は
      25文字が限界なので
      それを制限として
      文章を作成せよ
      そんな感じかな
 
 
 ∧∧
(‥ )そこまでしても
\‐  非常に単純な事柄しか
    説明できないよね
 
  (‥ )一番困るのが
      皆が分かったと思っている
      単語や
      単語が指し示す概念
      それ自体に誤りが
      まざっている場合だな
 
 典型的な例が”種”だろう。種は人間の恣意的な認識だ。
 
 種とは認識と理解、つまり情報を脳内で処理する過程で使用する便宜的な枠組みでしかない。画素みたいなものである。画素は必要だが、実在するわけではない。
 
 同様に、種は人体の外部には存在しない。
 
 存在すると主張する人もいるが、種を明瞭に指定できるのはむしろ例外的な事例と考えるべきだろう。
 
 *例:その系統、最後の生き残りであったロンサム・ジョージ。これなら個体を指定すれば種になる。ただし、ロンサムジョージは種ではなく、亜種の最後の個体であった。
 
 
 ∧∧
( ‥)人間の認識は恣意的
    しかし理解は
    認識に基づく動作
    そうである以上
    理解には必ず
    誤謬の原因が隠されている
 
  (‥ )理解という動作は
      必然的に
      理解を破壊するように
      作用する
      そう言うべきかもしれんな
 
 認識という過程そのものに誤謬や現実との齟齬がある以上、理解には絶対的に誤謬が混ざる。
 
 最近抱いている疑惑なんだけども、点から等距離にある点の集合が円である、という定義と認識は自明の理、つまり公理であるとされるが
 
 ∧∧
(‥ )これも単なる認識だと
\‐
 
  (‥ )近似的に正しいけど
      自明の理というのは
      おそらく飛躍だな
 
 それは、点から等距離に存在する大きさゼロの点は真円を描くに違いない、という認識でしかないんだろう。実際、これを論証した人はいない。そもそも空間がピクセルのようなもので出来ているのなら、単純に考えて以上は成立しないし、空間がそういう成り立ちをしていないという保証は聞いたことが無い。
 
 ∧∧
( ‥)例えば嗅覚に依存する生物は
    点から等距離の点の集合は
    円であると認識できるので
    あろうか?
 
  (‥ )嗅覚に依存する動物ってさ
      点と点と
      それをつなげる線に沿って
      動くように見えるのだよね
 
 あのような世界観に、点から等距離の点の集合は円である、という発想があるのだろうか?
 
 点と線による世界観。考えてみれば自分たち人間にもそういう世界観はある。
 
 ∧∧
(‥ )地図がそうだよね
\‐  測量したものはともかく
    人間が
    認識的に案内図を描くと
    実際の地形とかなり違う
    配置と道筋を描くという
 
  (‥ )あれは目印という点と
      道筋を主観的に
      組み上げたものだよな
      あれはもしかしたら
      嗅覚に依存する動物の
      世界観に
      かなり近いかもしれん
 
 実際に近いのかどうかはともかく、例えば、地図を描く感じで円を想像してみよう。
 
 ∧∧
( ‥)どうよ?
 
  ( ‥)...困ったね
      点となる目印から
      等距離の目印が
      思いつかん
 
 例えば自分の家を中心とする。そこから等距離の目印を列挙する。列挙し尽くした時、その集合は円になる...はずなんだが、そんな実感を思い描けるだろうか?
 
 ∧∧
( ‥)思い描けない?
 
  (‥ )理屈じゃ円になるのだ
      それは”理解”できるが
      思い描けん
      そもそも等距離の目印が
      存在しないからな
 
 自分の家から等距離にある地点はどこか? 
 
 そう言われても思い浮かばない。考えてみれば感覚的な地図とはそういうことを可能にするものではないだろう。私たちの地図は点と線だ。その組み合わせを描くには平面が必要だが、実際のところ認識自体は点と線であって、平面ではない。広がりがないのだ。
 
 これでは円を描けない。
 
 そもそも思い描いた地図の上では、等距離という概念もよく理解できない。
 
 確かに目的地にまで至る道筋を考えるとそこに相対的な長い短いはある。場合によっては同一の目印に至る時、ほぼ同じ”長さ”と思える道筋もある。だが、その長さとはなんだろうか?
 
 それは歩んだ時間とか、あるいは歩いた時の疲れ具合が同じとか、そんなことではないのか?
 
 本当に距離が同じなのか?
 
 ∧∧
(‥ )もし嗅覚で世界を感じる
\‐   知的生物がいて
     その人たちが
     匂いの目印と道順で
     世界を把握している時
     彼らの世界に
     円はあるのだろうか?
 
  (‥ )理解はできるだろうけど
      スタートはそこじゃ
      ないだろうね
 
 多分、点と線と距離と角度を計測するところから始めるのかもしれない。彼らが円を把握するのはそのずっと先ではないのか?
 
 ∧∧
( ‥)少なくとも
    円というイデアが存在する
    そういう世界観は
    持たないだろうと
 
  (‥ )真円というイデア
      それを信じれるのは
      視覚で図形を感じて
      図形を単純化
      理想化して認識する
      人類の特性だと思うけどな
 
 それを踏まえて考えると、ユークリッドの原論は非常に胡散臭い書物なのだとも言える。実際、その胡散臭さはプラトンのイデア論と同じなのだろう。そもそも彼らの数学の発端はピタゴラスであり、その根幹は宗教だ。
 
 樽親父のディオゲネスがプラトンをおちょくり続けたのもそのせいだろう。
 
 ∧∧
(‥ )プラトンくん
\‐  君の言うイデアなんて
    僕には見えないけどね?
    そう言ったと
    伝わってますからね
 
  (‥ )たぶんディオゲネスの
      言っていることが
      正しいのだよな
 
 考えてみれば原論の公理は自明の理ではなく、実際には恣意的なものであること明らかだ。
 
 円は等距離の点の集合である、そう設定したのも便宜的な理由だろう。
 
 ∧∧
(‥ )そう設定しないと
\‐  あらゆる幾何学的な
    位置においても成立する証明
    これが成り立たなくなるよね
 
  (‥ )おかしな話だろ?
      ゼノンのパラドックスを
      見れば分かるように
      古代ギリシャ人は
      無限を扱い切れないが
      幾何学を
      成立させるためには無限を
      導入してる
      これは必然的でないよね
 
 ∧∧
( ‥)恣意的に設定しただろ、と
 
  ( ‥)原論でさえも
    ‐□ 人間の認識という
      やばいものを
      組み込んでいる
      最低限
      その影響下にあることは
      警告的であるな
 
 これはあらゆることに絶対的に誤謬が入り込んでいることを示している。それがどれなのかを見極めなければならぬ。
      
      
     

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