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2014年7月23日水曜日

創作物の限界こそが我々の脳神経と認識の限界

 
 19世紀から20世紀初頭、当時、数学と自然科学において起きた革新。これは多分、人類史における画期的な出来事で、以後、それ以前の世界観ではまったく理解不可能な状況へ突入した。
 
 ∧∧
(‥ )少なくとも
\‐  どうもそういう側面が
    あるように見える
 
  (‥ )自然科学を見るだけでも
      確率、統計、熱力学
      そして進化論
      これらはそれ以前の世界観
      19世紀以前の
      世界観では理解不可能
 
 すごく大雑把な言い方をすると、これ以後、理解と理論は論理と証明が役立たない領域に入り込んだ、そう言えばいい。おそらく多分。
 
 ∧∧
( ‥)そして論理とはいわば
    文章を構成する文法に
    該当する
    論理的=正しい
    そう考える人がいるけども
    文法的に正しい文章で
    詐欺ができるように
    論理的な正しさは
    結論の妥当性を保証できない
 
  ( ‥)ようするにだ
    ‐□ 論理思考の人間は
      詐欺にひっかかるよ
      そういうことなんだけども

 それにしてもこれは要するにだ
 
 論理思考は、熱力学や統計学、進化論を理解する能力を欠いている

 ということのようにも思えるし、あるいは
 
 論理的なだけの文章は統計学や進化論を記述する能力を十分には持っていない
 
 ということであるようにも思える。
 
 ∧∧
(‥ )これ自体が
\‐  非常に歯がゆい表現ですよね
 
  (‥ )”論理的な文章は
      進化論を扱えない”
      そう表現すると
      ”進化論は論理的ではない
      だから間違っている”
      そういう主張に聞こえて
      しまうのでな
 
 もちろん、これはこういうことである。論理的な文章では文章内容が詐欺かそうでないのか、それすらも識別できない。そんな程度の識別能力では進化論や統計学は扱えない。進化論も統計学も、人がそういう領域の外にまで理解を拡張した時、初めて扱えるようになったものだ。その拡張が起きたのが19世紀中頃から20世紀初頭であって、それ以前の理解とそれ以後の理解はまるで別物である。これ比べたら天動説から地動説への転換など無きに等しい。私たちはこの変化を越えないと現代科学や数学を理解できない。
 

 ∧∧
( ‥)...やっぱ歯がゆくないですか?
 
  ( ‥)文章が論理だとしたら
    ‐□ 文章を操る僕らの思考も
      また論理であり文章だ
 
 つまり、文章というものが所詮は論理でしかなくて、無力かつ不十分なら、それを操る我々の思考自体もまた無力であり不十分だろう。文章自体を込み入った形式にしないとその概念を表現できないというのなら、思考もまた込み入った形式にしないといけない、そういうことでもある。もちろん無駄に複雑にする必要はないし、冗長などもっての他だ。しかし、必要最低限なものだけでも途方にくれる。そういうことはありがちである。そして事実、私たちは統計学や進化論を理解するのが非常に苦手だ。苦手なものは苦手であり、そして文章にもそれが反映される。
 
 ∧∧
(‥ )あなたの文章力って問題も
\‐  あるだろうけどね
 
  (‥ )まあ、それはさておきだな
 
 ここでさらに考えるに、小説が文章であること、小説という形式上、小説は明快な文章であることを要求されること、これらを考えるに。
 
 ∧∧
( ‥)SFは統計学や進化論を
    扱うには向いていない?
 
  ( ‥)実際、SFの道具立てで
    ‐□ 統計学や進化論が
      活躍するのは
      あまり例がないよねえ
 
 X-メンとか「地球幼年期の終わり」とかあるじゃないか、という人もいるだろうけども、あれらはダーウィニズムとはほど遠い世界観だ。他の作品も多かれ少なかれそんなように見える。ああいう進化観はダーウィニズム以前の中世的な世界観、あるいは今西進化論とか断続平衡説に近い世界観であるし、そしてそれらの理論が読書家や知識人に”受けた”一方で、実はてんで間違いでお話にならないものだったことは極めて暗示的である。
 
 言い換えると、説明を分かりやすく、論理的な文学として成立させるには、ああするしかない、ということなのだろう。
 
 *これは分かりやすい文章とは、実のところ説明能力がない、ということでもある。
 
 ∧∧
(‥ )一方、統計学と言えば
\‐  原因と結果を論証したり
    するものですけどね
 
  (‥ )因子の同定を行う
      そんな
      SFってあったっけかな?
 
 いや、確かに実はいっぱいあるのである。というか因果と原因の究明は小説が持つ基本のひとつだろう。問題はだ、そういう究明が統計的な処理に基づいた展開を見せるのか? と言われればどうだろう。
 
 ∧∧
( ‥)病原体の究明という意味では
    アンドロメダ病原体とか
    あるけどもね
 
  ( ‥)でもさ、あれも
    ‐□ 泣き叫ぶ赤ん坊と
      アル中のおっさんだけが
      生き残ったのはなぜか?
      そういう原因究明なんだよな
      なんていうの
      パスツール時代程度の
      世界観だとも言えるよね
 
 統計的な因果関係の推論とは、裁判で争われるようなしろもので、思うにこれは確かに小説には向かない。
 
 タバコと肺がんの因果関係は?
 
 ホメオパシーを医療として認めるのは止めろ
 いーえ、この画期的な治療法は正しいんですー! 
 
 こういう争いが文学として成立するのか? そういう話でもある。
 
 ∧∧
(‥ )SFも結局は文学の一種で
\‐  人間の認識に沿った
    明瞭さを求められるからね
 
  (‥ )つまり文学である以上
      SFには論理性が
      求められるのだ
      そしてだ
      アインシュタインの
      相対性理論を
      テーマにすることは
      あってもだ
      ブラウン運動を
      テーマにしたSFは
      ちょっと聞いたことがない
      これは興味深いだろ?
 

 「ミクロの決死圏」はテーマというよりは見聞ではないかと思われるし、単に自分が知らないだけかもしれないが、こういうこともまた暗示的ではある。
 
 ∧∧
( ‥)1859年以後、世界は
    変った
    だけどあなたがたの
    世界観はそれ以前の
    ままであると
 
  ( ‥)新しい理解が発明されても
    ‐□ 我々の脳神経が
      変るわけじゃないからな
 
 私たちの創造物は私たちの脳神経に対応したものだろう。だとしたら私たちの創作物に見られる限界こそが我々の限界でもある。それは理解の限界でもあり、認識の限界だ。私たちは己の限界を見て得意になっているだけにすぎぬ。
 
 
 

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