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2015年8月5日水曜日

我々の認識は嘘っぱちである

 
 生物の種とはなんだろうか?
 
 種の定義を論じる前に次のように考えてみよう
 
 すべての生物は進化で生じる。だとするとすべての生物は連続体である。連続体を区別して考えるとは、それは単なる認識にすぎないであろう。
 
 つまり生物の種とは人間の認識でしかない。そうである以上、種を定義することはできないし、その必要も無い。
 
 これが論証されるべきことであった。
 
 ∧∧
(‥ )まあダーウィンさんの
\‐  論法ってこういうものだよね
 
  (‥ )だが他のほとんど全員は
      この論法を理解できず
      種の定義から話を
      スタートしようとした
      今西錦司とか
      グールドとか
      ルイセンコとかな
 
 
 連続体であることを論証すべきなのに、種の定義からスタートした。これは致命的な間違いであった。

 分離した種の定義から始まった推理はどこまでいっても分割にしか至らない。どうやっても種の間隙を埋めることができない。そりゃそうだ。論理は前提に含まれる答えを出力するだけのもの。定義から始まった論理はどこまでいっても定義の中だ。分割から始まった理論は連続体には至らない。
 
 今西錦司もグールドもルイセンコも、なにもかも最初から破綻していた。彼らは最終的に非進化論者になってしまうのである。
 
 *特にグールドとルイセンコの場合、本人たちは進化論者であると思い込んでいたので、言ってる事が極めて混乱的である。
 
 一方、ダーウィンの主張は正しいのだが、正しいがゆえに、人間の認識を破壊することを理解者に要求するものであった。

 ∧∧
(‥ )認識の破壊を要求される
\‐  これは読者にとって
    極めて苦痛である
 
  (‥ )まあだから
      多くの知識人は
      ダーウィンから
      逃げ出したのだ
      そしてあの連中は
      進化論者の仮面をかぶった
      グールドや今西錦司の
      意見に逃げ込んだのさ
 
 
 この現象にはひとつ教訓がある。
 
 ∧∧
( ‥)あなたたち人間は
    楽を選んで
    自分たちの認識論に
    閉じこもる傾向がある
 
  (‥ )つまりな
      これは疑惑なんだ
 
 人間の認識は現実とまったく解離しているわけではない。
 
 しかし、認識は現実と同じものでもない。
 
 しかるに人間は認識を使って物事を理解している。
 
 つまりこうである。我々の理解と世界観はことごとく嘘っぱちではないのか?
 
 
 
 

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