さてさて、第7章はルイセンコ騒動と種の実在論。当時、「二つの遺伝学」は誰もが読むべき権威ある基本文献だと考えられていたって、まじですか・・・。
( ‥)もはや別の宇宙の話だな
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( ‥)異次元ですね。
観念論的なメンデル遺伝を排し、実践的なミチューリン農法(ルイセンコ農法と翻訳)を行うべし、そうねえ、徳田って人たちはそんなこと言っていたよなあ。
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( ‥)メンデル遺伝学が観念論的?
(‥ )そうねえ、「二つの遺伝学」を読んだ経験からするに
これは仮説的、と翻訳すれば理解できるかなあ。
仮想的な存在を前提すれば観念論的なんだそうだ(彼らは電子をどう思って工学したんだろう?)
いやもっと平たく言うとマルクス主義と弁証法でないものは観念論的である、そう翻訳すればいいか。さらに言ってしまえば観念論的=悪い、と翻訳すれば彼らの言ってることが理解しやすいかもしれぬ。
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( ‥)悪いから悪いってそれだけじゃ意味ないでしょ?
(‥ )意味ないよ。というか実際に意味なかったし。
ルイセンコや徳田って人が言ったことは正直、うすっぺらのぺらぺらで、要約してしまえば
マルクス主義であるものは良い
ルイセンコの考えに従えば農業に革命が起こるはずであり、農業生産は無限に増大するから良い
ルイセンコの考えはマルクス主義的であるから正しい
マルクス主義でないものは悪い
メンデル遺伝学は農業生産を無限に増大することを保証しない
メンデル遺伝学はマルクス主義的ではなく、だから間違っている
まあ、こんな感じ。
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( ‥)じゃあ、実践的とは?
(‥ )マルクス主義に基づいて何かする、と翻訳すれば
たぶん、理解できると思う。
彼らの実践的という言葉には”政治運動”の意味はあるが、実験するとか検証するとかそういう意味はない。あるいはあったとしても使用に耐えられないほどに意味が希薄。さもなきゃ遺伝子資源を求め集め続けたヴァヴィロフを殺したりはしない。実験とか検証とか仮説の妥当性とか、そんなもの彼らにとってどうでもいいことだったんだろう。というかそれはすでに分かったことだと思っていた、”解決済み”だと認識しているから無視できたんじゃなかろうか。
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( ‥)でも、運動すれば検証することになっちゃうでしょ?
(‥ )だから破滅したんだろ?
しかし本体が破滅してもなぜか残響が残ることがある。というか”良いのだから良い”なんてことを言ったのがいけないのか、はたまた”論理的であるのだから正しいのだ”なんていうごたいそうに聞こえる無意味を振り回していたのがいけなかったのか。
頭がなまっていたのかもしれない。
そして確かに70年代になってDNAも紹介しているのにマルクス主義だの弁証法だの言っていた本もあった。
ある意味、オレ様理論の最悪の面がただひたすらに出た事件。それがルイセンコ。検証の従わないオレ様理論なんてゴミくず以下ですよ。以下。
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( ‥)でっ、この種なるものがある機能を果たすという
残響はどうなるんでしょうね?
(‥ )それはここから先を読まねばなあ
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