終わった。半分は終わった。取りあえず。
∧∧
( ‥)でもまだ半分だけですよ
( — —)はいはい
さて
早田文蔵さん。紹介された分類学に関するこの人の言及を聞いていると、なんというか
(‥ )昔、透明なボディーの中にきらきら光るものを
入れたスーパーボールがあったろ?
∧∧
( ‥)はあ、あれを連想するんですか?
あるいはある種のビー玉を連想するのだぞなもし。
そしてこんなことを考える。
それが投影される/あるいは切り出される。それはすなわち、スーパーボールなりビー玉の影を見ていることになる。それかあるいは
∧∧
( ‥)あるいはガラスだと”影”が屈折しちゃうから
見たまんまな映像について言及している
というわけですか。
(‥ )僕らが見ているものは3次元かもしれないけども
僕らが見ている映像自体は2次元だ。
”見る”というのはどうあがこうが2次元なのだ(おまけに処理の過程でゆがんで見える)
そこで”低次元な切断面に射影してみました”と聞くと、こんなことを連想。
( ‥)イデアの影とは射影なのかね?
-□
∧∧
( ‥)さあ? 影とは確かにいってますけどね。
(‥ )円を回転させて組み合わせを変える。動くということは
より高次元なものを投影しているからなのかね?
∧∧
( ‥)さあ? 確かに動くとか、”動く的”ってことでは
ありますけどね。
(‥ )スーパーボールやビー玉を見る時、
向きを変えれば内部の森羅万象はその見え方を
変えるわけだよね。
∧∧
( ‥)? まあ変化と動きではありますよね。
イデアの影が動くとは、これは一体いかなることなりや?
∧∧
( ‥)まあ、イデアの影なるものが実際に森羅万象の本体、
つまり森羅万象こそイデアを投影したものであると
ブルーノさんが考えたかどうかはともかくとして、
あなたはここで考えるわけですよ。
(‥ )類似性に基づく人々が自分たちの考えは
系統学よりも盤石である。そう信じた気持ちは
分からなくもないよなあ、とね。
ビー玉の中の森羅万象をすべて立体的に再現できたら、これこそ世界であり、これこそ森羅万象である。そう言うのは当然と言えば当然。
∧∧
( ‥)ただ、それはそのままでは複雑怪奇なので、
あえて平面にしてみたり
(‥ )あるいは複雑怪奇な有り様を処理しきれなくて
平面図にまでしかたどりつけなかったり。
どうも話を聞くに、世界はそういう図譜と無数の試みで満ちているらしい。
そしてビー玉の中が森羅万象であるのだから、では、これを見ればよいではないか、というのは当然の結論といえば結論。
∧∧
( ‥)ただ、ビー玉の中の森羅万象の有り様に
おかしなパターンが見えるわけですよね。
(‥ )有り様の有り様、それ自体が何か別のことを
指し示しているのだ。
それは結局、
森羅万象、それ自体が過去においてはまるで違う姿をしていたことを。
そして現在の森羅万象それ自体がかつてから今に至るまでの間、ある原理に従って、今の姿を手に入れたということを。
そして森羅万象の今の有り様、それ自体の有り様にそのことを指し示す痕跡が残されていること。
それらを指し示していたというわけであって。
∧∧
( ‥)それは森羅万象、それ自体が別の何者かの影であった
そういうことでしょ?
( ‥)だから系統学は表形学を圧倒し、
-□ 表形学もまた分子系統学になったのだと
思うのだけども(少なくとも生物学では)。
そしてこうも思うのですよ。早田さんの美しい世界も、それは系統の影であったということなのだ。
そしてこうも思う。
分類に関する本であるのに、”分類の実質に関して著者は明言していない”、およそこれに近似な評価を時としてされているらしい、そういう書き方になっているとはいかなる意図があるなりや?
∧∧
( ‥)それは分類は森羅万象を”見た”ものだという主張と
しかし森羅万象それ自体が実は別のものの影であったということと
(‥ )それに気づかなかった、それを無視した
しかし人がそうしてもそれはやはりそこにある、そういう
人間の心の歴史と系統との関係と、
整合的に符号しそうだと思うのだけどもね。
∧∧
( ‥)でもそれはあなたの”見た”世界なわけですよね。
(‥ )いろいろな意味で見たのだ。