例えばの話。二次方程式で解ける問題があるとする。教科書を読めば二次方程式が載っていて、極端な場合、(望ましいことではないが)公式の性質を十分理解できなくても数値を入力すれば、それこそ自動的に答えを導ける。
ところが世の中には教科書を読まずに、”オレ様方程式”を発明する人たちがいる。まあべつに発明することは悪いわけではない。ドンピシャリ、独自に二次方程式を思いつくのなら、それはそれですばらしいに違いない。問題は、
∧∧
( ‥)この場合なら二次方程式ではない方程式を発明しちゃっている
場合が問題ですね。
(‥ )例えば議題に上がっている数字自体に関しては二次方程式と
同じ答えを出せるが、それ以外に関してはてんで出せないって
やつを発明しちゃうとかね。
例えばその人の発明したグラフと二次方程式のグラフがどっかで交わっているだけって状態とか?
ともあれ、さらにその上にその手の人が例えば次のような主張をすることがある。
オレは正しい解法を見つけた
さらにはこんな主張をする場合もある。
曰く、オレは研究者も気づかないような解法を見つけたのだ。
∧∧
( ‥)? でも考えてみれば妙ですよね?
教科書を読まないのに、結果的には教科書を越えたって
言っているわけでしょ?
(‥ )まあ、だからこの手の人は研究者とか院生からは
評判悪いよね。
まずは教科書読め、論文読め、と言われる、あるいは「そうですか、それはそれは・・」と慇懃にお帰りを願う。まあねえ、そうねえ、そういう風に言われるよねえ。
でも、しかし、研究者とか院生からすればそうなんだろうけども、思いついちまった彼ら本人たちからすれば別におかしな論ではないかもしれぬ。
∧∧
( ‥)なんで?
(‥ )教科書を読まないからこそ自分のアイデアは
教科書以上だって思えるんだろ?
何もない世界に光明のようにアイデアが光り輝いたら
比較対象がなければそれが一番まぶしいだろ?
そういう点では彼らの行動に矛盾はないし、理路整然としている。だけどもこれがくせ者かもしれない。
∧∧
( ‥)理路整然としているってことは
疑問を持たない根拠になるのかもしれませんね。
(‥ )疑問を持たないから自信があるとも言えるかもね。
この手の人が疑問を感じるのは教科書とかスタンダードとか、あるいは別のアイデアを抱えている人々と遭遇した時。ただおかしいというか当然というか、こういう場合でも自分に疑問を感じるというよりは相手の意見やスタンダードな意見にこそ疑問を感じるらしい。実際、その手の人は
∧∧
( ‥)権威主義だとか、オレのアイデアが理解できないのは
あなたたちが自分たちのやり方に
拘泥しているからだっていいますよね。
(‥ )言うね。そして彼らがそういう時、その
半分は確かに正しいのだ。
権威ってものはあるし、自分たちのやり方(パラダイム)に拘泥と言わないまでも、研究者なり一般人なりがある種のパラダイムを採用していることは疑いない。
( ‥)でもこの場合の権威ってのは検証された経験を踏まえた
評価であるし、パラダイムなり仮説を用いているのは
相手もそうだが自分自身もそうなんだよな。
∧∧
( ‥)つまるところ以上の反論は正当化になってはいないんですね。
よくできたもんで、権威主義だの、あなたたちは自分のやり方に拘泥しているだけではないか? とか、そういう事柄に潜む問題はもう何十年も前に科学哲学とかで議論されてきたことで、それこそ教科書に載っている。
∧∧
( ‥)教科書を読まない人が教科書に載っていることの
半分くらいを使った反論を独自にするわけですか。
(‥ )教科書を読まない人が教科書に載っていることを
独自に、しかし中途半端に思いついて反論する。
確かに整合的ではあるだろ?