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2009年10月5日月曜日

分かる/分からない

 
 公園にいったら朝も早よからツユクサにハナバチが飛来。熱心に訪花中。さすが温血動物、寒さをものともいたしません。訪花されたツユクサの花をルーペで覗いたらいわゆるX字型雄しべの花粉塊が幾つかぬぐったみたいに無くなっていたのだけども、ハナバチがとっていったのか、それ自体はよくわからず。

 ∧∧
( ‥)でもまあ、花の奥に舌をいれたり、
    足でごそごそ拭うようなことはしていましたよね。

    ( ‥)まあそうなんだけどね。

 さて

 分かる/分からない。前も書いたことなんだけども、分かった、という確信は実のところ”本人が何か確信している”という以上のことは述べていない。少なくともその”理解した”という確信はそれが”妥当であるか否か”ということにまったく関係しない。

 ∧∧
( ‥)例えばマルチ商法に引っかかった人は
    ”理解した”と思った上で参加しているわけですよね?

    (‥ )端から見て、「お前、騙されているぞ」という状況で
       あったとしてもね、本人は”理解した/分かった”と
       思っている。

 つまるところ、分かった/分からない/理解した/理解できない/、これらの単語はそれ自体ではたいした意味がない。分かったというのは、

私はこれを違和感なく受け入れた

というただの信念について語っているだけかもしれないし(例:君はこれをマルチ商法というけども私はそんなことはないと確信している。)、あるいは、

私は以下の手法でデータを解析した結果、この仮説を導いた。その仮説は妥当性がすでに検討されており、仮説を導いた解析手段の妥当性それ自体については付属の説明を見よ。まあこのような理由から私はこの仮説を採用してもいいじゃねーのと思うわけですよ。でもって私はその仮説に基づいて現象を観測し、解釈しているのだけども、それに何か問題ありますかね? 

というかなり手堅いことを言っているのかもしれない(例:まっとうな論文における記述)。


 さて、時としている”考える素人”が提案する、新説オレ様理論と遭遇した時、研究者はえてしてこんなことを聞く。

 どういう根拠でそれを言っているわけですかね?

 すると考える素人は次のようにしばしば反論する

1:こんなすごい根拠があるではありませんか、なぜ無視するのですか!!
2:私の仮説は理論的ではありませんか!!
3:私の仮説は現象を説明できているではありませんか!!


 ∧∧
( ‥)まあ、こういう事例はしょっちゅうみますね。

    (‥ )見るね。共通する特徴を抜き出すと例えば
        以上のような感じになるのだが。

 でもこれらの反論が研究者にはこう見えるっぽい

1:それがすごい根拠だっていうその根拠、それ自体の正当性はなに? 不明じゃん
2:理論的であることは妥当性とは関係ないよね。理論的=経験的にも支持された、なわけ?
3:説明出来る=経験的にすでに支持された、なわけ? オレは経験的に支持されたかどうかを知りたいんだが


 とまあ、こんな感じ? そういうわけで研究者はこの手の考える素人を馬鹿扱いするというか嫌うのだけども、でもまあ、そうねえ、しかし彼ら”考える素人”の立場からすれば先の発言は当然の行動なのだとも言える。

 ∧∧
( ‥)なんで?

    (‥ )”考える素人”を以下のように設定する。

 データを見た時、それを説明する最も妥当なグラフを発見できない

 これはおそらく次のことを意味する

:グラフを引いた根拠が不明
:しかしグラフを引くさいに何かのデータを用いてはいるのだから、これは結果的にデータのチョイスが極めて恣意的であるということを示す
:つまるところグラフが恣意的である
:グラフが恣意的であるということは、それがたまたま最善のグラフに近いものでない限り、追加されたデータは彼のグラフを支持しない
:それでも自身のグラフに拘泥するということは追加されるデータを利用できない/あるいはあえてしない/あるいは元々そんな発想がなかったことを示す
:つまりグラフを経験的に検証することができない

 しかしそれでもなお、彼らの理屈の展開には残るものがある。

 ∧∧
( ‥)はあ、なにが残るんですか?

   (‥ )論理だけは残るでしょ。

 いくら恣意的に少数のデータをチョイスしたとはいってもデータは使っているわけだし、それらの整合性はさすがにとろうとするだろう。というか、整合性をとって作った結果が彼らの”オレ様理論”であるとも言える。問題はたぶん、用いたピースが少なすぎることなのだ。あるいは人間の脳の計算容量を越える問題なのに、暗算だけで結論を出したのがいけない。

 つまるところ総合するとこうなんじゃなかろうか。

目立つ幾つかのデータだけを整合性がとれるように組み上げ、仮説を作成した。それで満足してしまったのか、あるいは追加のデータが最初の仮説を支持しないので見て見ぬ振りをしたのか、経験的に仮説を検証することが結果的にできなくなっている。

 そして予想するに、このような人はスタンダードな研究者のやっていることは”分からない”、と言うだろう。それも信念を提示するという意味合いでしか言わないだろう。

 ∧∧
( ‥)なんで?

    (‥ )仮説を経験的に検証するという方法論が分からない、と
        発言するからには、経験はそこから抜けているわけだろ?

 そういう”分からない”とは検証不可能な”分からない”、ではないのかえ? 検証不可能な発言ということは、ようするに、その”分からない”とは現実世界において意味を持っていない言葉なのだ。

   

 
 


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