夢を見た。スーパーの中で車椅子の子を押している。「食べたいものが見当たらないなあ」というと、「これがおいしそう」と、その子が手にしたのはカボチャ食パンなるものだった。当たり前だが、そんなものは自分の知る限り実在しないし、必然的に珍しいから買った。後ろ姿だけでその子の顔は見ていない。
家に帰ると、そこは自分の住んでいる家ではなかった。倉庫と事務所をかねたような、理想的で、ああここなら住んでみたいと思える場所だが、妙に寒々しい。どういうわけかその時になって、その子も車椅子もいつの間にかいなくなっていることに気がついた。自分だけどうして帰ってきてしまったのか?
携帯電話で連絡をとろうと慌てて操作するも、しばらくしてから思い出した。僕はその子の電話番号を知らない。
以下、*の続き。
∧∧
( ‥)...ところでガリア戦記の方は?
( ‥)読み終えた、興味深い
-□
ガリア、およそフランス。ゲルマーニア、およそドイツ。
∧∧
( ‥)カエサル将軍によって行われたガリア征服
そのうち、紀元前58〜52年における
有様を記述したのがガリア戦記。
(‥ )ガリア人が曰く、「ゲルマン人の土地は
□- ガリア人の土地とは比較にならず、
生活の程度も比べ物にならない」と
のべている。
∧∧
( ‥)涼しいとはいっても畜産と並行して
穀物をそれなりに耕作できるフランスと
(‥ )それよりも牧畜、肉と乳製品に
対する依存度が高いドイツ。
そういうことだね。
風習、習慣もあるだろうけども
そもそも気候が悪いのだろうな。
ガリア人がいっているのも
そういうことだしね。
カエサルはガリア征服においては、友好的(カエサルに言わせれば態度も熱意もころころひるがえすのだけど)な部族から穀物の補給を受けたり、あるいは敵対する部族の土地を略奪することで軍隊をまかなっていた。しかし、敵がゲルマン人の領域に逃げたことを知ったカエサルは
∧∧
( ‥)ゲルマーニー人がみな農業にあまり
-□ 熱心でないから穀物に不足するかも
知れないのを恐れて...という描写が
ありますね。
(‥ )補給は現地調達。それが
分かる部分でもあるね。
敵もいないし、物資を集めようか、と畑で刈り取りをしている兵士が襲われたり、薪集めの兵士が殺されたり、家や町、畑を焼く焦土戦術に悩まされたり、補給、兵站、渡河地点の確保などにおいて具体的で色々な描写がある。
∧∧
( ‥)カエサル将軍が軍事史で輝いているのは
こういう資料を残したからでしょうか?
(‥ )戦争で戦っている当事者にしては
□- イデオロギーとか価値観の鼓舞や
連呼とか、そういう痛い面が
すごい薄いのよな。
かなり淡々と、司令官だから
だろうけども、知り得た情報に
基づいて簡潔に、しかも具体的に
詳しく書いているのよね
これは重宝するだろう。2000年たっても価値があるとはこういうことか。
考えてみればすぐに価値観を持ち出して「ここは倫理的にこうあるべき」「これではまるで某大国ではないか!」と演説したり、馬鹿みたいに派手な形容詞を使いたがる作家やインテリが世の中にめちゃくちゃ多いことからすると、ちょっと異例な人だと思う(やれると思う人はやってみよう。自分の日々のことでも良いから、淡々と具体的に、恥のすべてを書けとはいわないが、失敗も適切に)。
∧∧
( ‥)そういえば失火だけど、エジプト制圧の
際にはアレクサンドリア大図書館を
焼いちゃったのですよね。
(‥ )まだ読んでないけど、言葉濁して
□- 言い訳しているらしいのだけど
あれよね、「やっべーこと
しちゃった...」と思う感性を
カエサルは、あるいは彼を
記述した人々はおそらく
持っていたということよな。
最終的に図書館を破壊して価値観ばかり連呼したキリスト教徒とはえらい違いだと言える(イスラム教徒による図書館の最終的な破壊と焚書にまつわる伝説はどうも嘘ではないかと言う)。
話を戻すと
∧∧
(‥ )8世紀のカール大帝の時代でも
□– ガリアの農耕は地味を回復させる
ために耕作地が移動したり、
徴税の仕組みを発達させられずに
大帝自らが直接徴税に回ったり。
(‥ )ガリアは部族が割拠する小さな
共同体のパッチワークらしいけども
ガリア征服当時から8世紀たっても
基本は同じで、農業も村も、
ひいては国も未成熟で、
有力者とその周囲の被保護者たち
という仕組みのまんまだった。
そういうことのように見えるね
それでもフランスはまだしも気候が良い。フランスはいち早く中央集権国家を打ち立てたけども、それにくらべてドイツが統一政権を作るのが遅れたのは、列強の中では後発の国で不利になったのは、それは気候と農業のせいか?
∧∧
( ‥)次は帝国の税制や、西ローマ崩壊後の
封建制の確立とかを調べると?
( ‥)まあ、必要なのはそれだけじゃ
-□ ないから、ほどほどにしないと
いけないのだが。