そういえば以前、プロフェシーという映画があった。アメリカにおける都市伝説のいわゆるモスマンを題材にしたんだかなんだかな物語。現在の出来事も未来さえもすべてお見通しの存在からいきなり電話をかけられて困惑する主人公の物語。
( ‥)あの中でこんな台詞があったよな。高い場所に登って
作業している人は何ブロックも先のことが見えるが
だからといって彼が偉大な存在であるわけではない。
∧∧
( ‥)先が見えているからといって、それを教えるからといって
偉大であるとか、善意に基づいてやっているとか
警告であるとか、そんなことはないって話でしたね。
まあ、確かそんな話。先が読める立場にいるから偉大であるわけではない。単に空間的にそういう立ち位置にいるというだけの話。
なるほど、それは結構面白いかもしれない。
例えば、何かの事柄を教えてくれるからには、彼/あるいは彼らが善意でやっているに違いない。そう解釈する人もいるけども、それはまったくの飛躍だ。誰かがこちらに対して何か情報を与える時、確実に言えるのはその誰かがこちらに情報を与えてくれているというだけで、その動機についてはまったく何も語っていない。
彼は善意だがこちらのことが分かっていないのかもしれないし、倫理や動機が異質すぎてこちらのことがまったく理解できていないのかもしれない、あるいは彼の動機が悪意そのものであるということ、これも当然ありうる。
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( ‥)考えてみればジャーナリズムやマスメディアも
そうかもしれませんね。
(‥ )彼らもこれから起こることはある程度知っているからなあ。
もう何年も前、十数年前になるけども大きな事件の捜査が行われる2、3日前に、事件の真相をぼそっとしゃべったやつがいる。彼は新聞社にいたから、事前に記者や社内のうわさ話から何かつかんだんだろう。
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( ‥)でもだからといって彼が高潔であるとか
皆のことを考えていったわけではないですよね?
(‥ )ありゃあむしろうわさ話だからな。
実際、情報発信者がそれを善意でやっているとか、義務感でやっているとか、そうであるという保証はない。むしろ違うんじゃないの? そう思う。
彼らは善意と義務感でやっている、そうであるに違いない、そうであるべきだ、そういう人もいるけどもそれはたわ言だ。あるいはそれは”○○であるべきだ”という自身の信念を語っているだけで、どっかの怪しげな宗教とそれでは何にも変わらない。あるいは区別ができない。つまるところ根拠がない。
誰かが、ジャーナリズムやマスメディアは消費者のために何かしているのだ、そう考えているとしたら、それはおおいなる勘違いだ。そればかりか、
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( ‥)悪意そのものであることもありえますよね?
(‥ )当然。
しかも、弱ったことに、同じものがある人に対しては善意になり、事実そのように働きうるが、別の人に対しては一転してまったくの悪意になることがある。