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2009年4月1日水曜日

淘汰の単位

 
 種の起源を読むを少し追加したのだけども。ダーウィンは時として種が種を滅ぼすとか、種の利益とか、あるいはcommunityの利益という表現をした。だから進化理論の祖は淘汰の単位をどう考えていたのだ? ということが現在に至るまで、科学史家だの科学哲学者だの研究者だのによってしばしば議論されてきたのだけども。

 ∧∧
( ‥)どう思います?

    (‥ )ざっくり言うと、淘汰の単位は個体。
        そしてその延長で系統群を記述しているから、
        表現があいまいになる余地があったと解釈
       
 系統は遺伝する変異/相違/特徴を共有している(当然、二次的にそれを無くしてしまうものもあるけども)、そのことから不妊カーストがどのように進化したのか? とか、中間種はなぜ存在しないのか、なぜ種ははっきりと識別できるものとして見えるのか、とかそういう現象をダーウィンはもろもろ説明した。

 ∧∧
( ‥)ダーウィンさんの”詳細な説明”の目的は
    淘汰の単位ではなくて、現象の説明、それそのものだと。

    (‥ )そういう場合、個々の説明において
        淘汰の単位がどれだとか、いちいち解説しないだろ?

 無頓着に記述の形式を変えたりしたのも、どっちだかよく分からない表現が散見するのもそのせいじゃね?


    (‥ )逆に考えればだ、群淘汰を採用していたら
        ウシや野菜を食べちゃっても血縁が生き残っているから
        品種改良できるっしょ、なんて説明はしないよね
 ∧∧
( ‥)まあそうですね。種の保存のために犠牲になるのである
    というでしょうね。

 だいたい、群淘汰で考えていたら不妊カーストを問題視したりしないだろう。コロニーのために犠牲になっているのです、それではいおしまいにするさね。そういえば「利己的遺伝子」の書評で、不妊個体の何が問題なの? と訳の分からん書評を書いていた奴がいたが、まあ、群淘汰で考えていたらそれに近似な思考になるだろうさ。

 だからクローニンのいっていることや、トリバースの言っていることはおそらく正しい。ダーウィンの考えは血縁淘汰に近く、少なくとも群淘汰ではない。

 とはいえ、むしろ個人的に今、ひっかかっているのは。ダーウィンは”個体を淘汰の単位”だと本当に考えたのだろうかということで、


    (‥ )パンジェネシス仮説に従うと無数のジェンミュールが
     □-   器官や部位から生殖器官へ、そして子孫へと
         伝わるわけだが。
 ∧∧
( ‥)先祖返りも少量のジェンミュールが祖先から伝達されてくる
  -□  それが突然発現する。そういう風に
     説明しているように見えますね。

 こういう場合、たしかに”個体を通して変異は淘汰される”のだけども、同時に個体は無数のジェンミュールの系譜を束ねたものになるわけだよね? 

 ∧∧
( ‥)彼は個体ではなくて、個体の内部にある
    ジェンミュールを淘汰の単位とみなしうる
    というわけですか?

    (‥ )理屈の上ではそう考えていたとしてもおかしくないだろ?

 パンジェネシス仮説は体細胞と生殖細胞の区別が、というか双方が個体の中では独立している、という動物的な世界観(?)ではなくて、体細胞変異や体の一部から全体を再生する植物の世界観(?)に多くを負っているいるっぽい。

    (‥ )植物の個体って体細胞変異が現れて、それが別個体に
        なりうるという点では、いわゆる高等動物のような個体
        じゃないよね。
 ∧∧
( ‥)まあそうですね。

 1本の樹を無数の個体の集合だとは普通考えないけども、時にというかしばしば彼らは生殖細胞を介在させないまま他個体を生み出すし、それまでと違ったものさえ作り出す。

    ( ‥)こういうアナロジーに基づいたパンジェネシス仮説を
       展開したダーウィンにとって、淘汰の単位は個体なのか?
       それとも無数の個々のジェンミュールが単位なのだろうか?
 ∧∧
( ‥)さあ? 考え過ぎかもしれませんよ。

 

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