ふと、思う。チャールズ・ダーウィンは愛娘のアニーをわずか10歳でなくした。この時、彼にあった信仰心の最後のかけらが消えた。
といわれるし、ゆえに時としていわゆる宗教者から、ふん、そんな個人的な恨みで神を殺すなんて信じられない、と評されることがある。
のだけども、この解釈、本当かね?
∧∧
( ‥)なんでそう思います?
(‥ )神の道をいった方が幸せな解釈ができるのに、
なぜ恐ろしい解釈の道をわざわざ選ぶ?
愛娘を奪われてうちひしがれたとされる男が、それはたしかに打ちのめされたのは打ちのめされたのではあるのだけれども、私のかわいい天使は、もう苦しんでいないと書いたのだから。
しかしでは、いったいなんで神の救いでなく、わざわざ生存競争の方を選ぶのだ? なぜよりによって娘が死ぬ理由をぞっとするような冷たい理由で解釈する説明の方を選ぶ? 神への復讐のために、なぜ復讐の理由であるはずの愛娘をもう一度殺すようなこと選ぶ必要があるのだね? この解釈、おかしくねーか?
∧∧
( ‥)まあ、解釈に解釈を重ねれば先の結論に
すりあわせられますけどね、
(‥ )でも、そういう思考方法は疑似科学だよ。
つまるところ、ダーウィンという人は現実を説明し操作できる使える説明の方を選んだだけじゃないのかね?
∧∧
( ‥)まあ、実際、その方が困った時に
役立ちますからね。
(‥ )自動車を説明するのが神なのか、あるいは工学なのか。
クラッシュも経験した時、人はいずれを選ぶなりや?
だいたい、そうでもなければ、他花受精の問題にあそこまでしつこくこだわったりはしないんじゃないのか。