創造論者の論法というのは間違っている。というか実際のところ宗教的に極めて危険な要素をはらんでいる。
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( ‥)そうなの?
(‥ )仮説を論証する過程を理解していないとか
そういう点を抜きにしても、彼らの論法には
まずい部分があって・・・
あれをそのまま応用すると聖書の内容もまた否定されるだろう
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( ‥)なりますか
(‥ )なるだろうね。今、ここではその方法について
詳しく語らないけど。
でっ、そのことを踏まえて思うのだけども・・・。ヴァチカンとか、神学者とか、もうずいぶん前からこういうことに気づいているんじゃねーの?
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( ‥)どうなんでしょうね?
(‥ )1000年以上も神を論証しようとしてきた人々だ
気がつかないわけがない。
例えば、どうもざっと聞いた限りでは”最節約な見解からすれば神が存在すると考える必要はない”という懐疑的な見解がありうること。これ自体にはもう何世紀も前に気がついていたらしい。
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( ‥)まあ、、、当たり前っちゃ当たり前な
ひとつの答えですからね
(‥ )つまりこう。誰か気づく、これは必然。
誰か気づけば、それはおおよそ彼らが共有する情報になりうるだろう。少なくとも文章として記述されればそれは何世紀にも渡って残り、誰かが忘れても、誰かがいつか必ずそれに気づく。
創造論は結局のところ、論証の過程におかしな点があったり、あるいはダブルスタンダードになっている。あのままでは
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( ‥)聖書の記述をおかしな論証でもって
否定することに道を開いたり、、、
(‥ )あるいは信仰は理性によっては決して正当化できない
という結論に道を開くことになる。
たぶん、あれは宗教的に極めて危険な思想。というか宗教者の、特に真面目に本を読んでいる人で、なおかつ中途半端にしか考えていない人、自分の論証の過程に穴があることに気がつかない不注意な人は、
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( ‥)宗教の側から見ても極めて危険だと。
(‥ )科学は論理的であるから正しいのだ、といったら
間違っているだけでなくて危険であることと同じ
で、思うに、神学者達はどの程度、この危険を認識しているわけ?
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( ‥)というかすでに議論の形で現れているのでは?
(‥ )たぶん、そうでないかと思うのだよねえ。
こんど調べてみるか。たぶん、何世紀も前に誰かと誰かが激烈な言い合いをしているだろう。