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2014年12月23日火曜日

演説が雄弁である、というのは定規のひとつでしかない

 
夕焼けはきれいであった












  
   でも雲があるから
 ∧∧ 火星は見れないね
(‥ )
 ‐( ‥)まあ
     また明日以降だな
 
 さて

 時に批判的な人は曰く
 
 アメリカの政治家を見たまえ。スタッフにより練り上げられた文面に目を落とすことなく、ちゃんと人びとを見ながら雄弁に演説する。
 
 これが民主主義だ。これができないから日本の政治家は駄目なんだ!
 
 ∧∧
(‥ )でも詐欺師も同じこと
\‐  するよね
 
  (‥ )動作の基本は同じだ
      人びとに訴えかけて
      支持を集めるわけ
      だからな
 
 つまり、当たり前の話だが、雄弁な演説は内容の正しさと関連していないのである。雄弁とは、結局のところ外見的な話でしかない。

 実際、直接民主制で選ばれたアメリカの指導者がしたことはイラクに攻め込んで地域を不安定化させて自らの国力を消耗し、その痛みに耐えかねて無責任に撤退しようとしたが、それでますます地域が不安定化して、再び介入せざるをえないという、馬鹿を絵に描いたような結果であった。
 
 雄弁で練り上げられた演説が具体的な内容を持つ保証が無いこと、以上から明白であろう。
 
 ∧∧
( ‥)アメリカの政治は素晴らしい!
    ではなくてむしろ
 
  (‥ )アメリカの政治家と
      日本の政治家
      能力は同じだと
      見るべきだろうな
 
 人間の能力が小学生程度で止まってしまうことを考えれば、たぶん、良くて中学生ぐらいではないか?
 
 実際、少数独裁でシーア派を押さえていたフセイン大統領を殺せばどうなるか? それは誰が考えても明白なことだし、警告もされていたのだが、聞く耳持たずで殺してしまってあの結果である。
 
 あるいはこう。
 
 アメリカの中間層を再生するのだ。その志、それ自体は立派だけども、平均的な能力しかない大多数の人間が、他の労働者よりも有利になって仕事をもらえるのは、賃金が大多数よりも低い場合に限る。だがアメリカはもはや裕福な国だ。前提条件が崩れている。
 
 ∧∧
(‥ )つまりオバマさんの演説
\‐  兵士の皆さんは家庭に帰り
    今度は国と中間層を再生する
    役目を果たしてください
    この演説と願いは
    まったくの見当外れである
 
  (‥ )アメリカの中間層は
      もはや再生なんかしない
      志は立派だが
      馬鹿げてるよね
 
 意地悪な言い方をすれば、こんなめちゃくちゃな信念のために軍隊を撤退させ、地域をさらにめちゃくちゃにしたとも言えるわけで、とんでもない話だと言えよう。
 
 以上のように事実として直接民主制の指導者たちの能力は、中学生ぐらいの理解だと考えて良いだろう。
 
 ∧∧
( ‥)つまり
    脂ぎった田舎の親父が
    政治家をやっている
    遅れた日本という言い様は
 
  (‥ )レベルは同じだろうな
      単に文化が違う
      つまり評価の尺度が
      違うから
      お互いが非常に失礼で
      なおかつ遅れた人間に
      見えている
      そういうことじゃね?
 
 アメリカ人からすれば日本の政治家は格式やしきたりにうるさいアジアの田舎者と写るだろう。彼らから見れば日本の政治家は原稿を棒読みする間抜けだ。
 
 一方、日本人からすればアメリカの政治家は、公的な外交の場においてさえも相手に対する礼儀をしらぬ未開の野蛮人に見える。無駄に雄弁に物事を語りたがる、もったいぶった馬鹿に見える。
 
 ∧∧
(‥ )でも実際には頭の出来は同じで
\‐  表現形式が違うだけでは
    ないだろうか?
 
  (‥ )文化というのは
      他人を推し量るために
      便宜的に作られた
      定規でしかない
      便利ではあるが
      便宜的なものでしか
      ないわけだ
 
 それを考えると、演説は雄弁だが、やっていることは馬鹿っぽい、というのは説明がつくだろう。
 
 文化はそれぞれ定規を設定し、それを人びとに強制する。
 
 公式の場ではスーツを着るのが当然である。
 
 王族に礼儀を見せるのは当然であるし、儀式にのっとって物事を行なわなければならない。
 
 それと同様、直接民主制の指導者は雄弁な演説をしなければならぬ。
 
 ∧∧
( ‥)自ら作り出し
    自らに押しつけた定規が
    それぞれ違うだけであると
 
  (‥ )着ている服と
      作法が違うだけで
      中身は変らない
      そういうこったろうな
 
 言い換えればである。何らかの基準で人を評価する時、評価それ自体はどうでも良いということになる。
 
 そうではなく、評価の基準と定規、それそのものが妥当なのかどうなのか、そこが問題となる。
 
 雄弁な演説とは定規のひとつでしかない。その定規を振りかざしたところで、定規それ自体に能力がないのであれば、それは詐欺師の口上と区別ができないのである。
 
 演説それ自体で物事を高く評価するのは、定規を無条件に信用し過ぎだ。
 
 それは判断に関してあまりにも無自覚であるし、あまりにも無邪気すぎる。
 
 
 
 

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