自己紹介

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2014年8月8日金曜日

その一手が絶望的に遠い

 
 せっかくネットがあるのに、なぜ同じ趣味、同じ趣向の人同士で集まって世界を閉ざすのか?
 
 ∧∧
(‥ )ありがちだよね
\‐  というかむしろ普通?
 
  (‥ )個人HP全盛の時代
      絵を描いていた人の
      リンクは
      それぞれ塊を作って
      いたようにね
 
 クラスターを作っていたと言えば良いか。萌えの絵を描く人ならそのHPのリンクにあるのはほとんどが萌えであり、リアル系ならリアル系、病んでる系なら病んでる系で相互にリンクを張り合い、塊を形成していた。
 
 ∧∧
( ‥)そりゃ自分の好みを
    変えろってわけにも
    いきませんからね
 
  ( ‥)そもそも現実世界が
    ‐□ そういうものなんだよね
 
 クラスでは似たもの同士が集まり、町は秋葉原、渋谷、神保町を見るまでもなく、相互に異なる世界を作り上げている。
 
 そしてそうである以上
 
 ∧∧
( ‥)本もまたそうであると
 
  (‥ )いつもの話であるな
      自分が分かる本を読む
      自分が好きな本を読む
      たったこれだけの動作で
      書棚に並ぶ膨大な本は
      隔絶され隔離された
      小さな分割された世界に
      変ってしまうのだ
 
 この状況では、たとえ100万冊の本を読んだとしても、まったく無意味となる。量が多くても読んでいる本の全てが同じである以上、結果はそういうことだ。
 
 もちろんこれを一概に悪いと言うことはできないんだろう。秋葉原にゲームとパソコンと同人誌の店が集まるのは不適切だから分散しましょう、渋谷を解体しよう、神保町の古書店を拡散しよう。こんな主張をする人はいないし、いたら頭がいかれてる。
 
 ∧∧
(‥ )問題はいつもの話
\‐  ”分かった”ですか
 
  (‥ )分かったは趣味という
      くだらない世界を
      まるで価値あるもので
      あるかのように
      偽装してしまうからな
 
 これは極めて危険な話である。
 
 例えばの話、
 
 自分の理解できる医療と自分の好きな医療を望む。それだけを選択し続けて、この医療こそが正しいのだと思い込む。そしてこれこそが”分かった”である。
 
 そう言えばどうか?
 
 ∧∧
( ‥)極めて危険
    これは死へ向かう道である
 
  ( ‥)人の知識は容易に
    ‐□ 断絶してしまうのだ
 
 例えば、科学が好きな人は科学の本を読む。だが、自分が分かる科学の本を読むのだ。
 
 ∧∧
( ‥)つまり極めて致命的
 
  (‥ )進化論に関しては
      これが露骨に出るのだよね
 
 例えばの話、科学の本が好きな人は、ダーウィンの進化論は画期的だったが今は否定されている、そう思い込んでいることが意外と多い。
 
 やれ、中立説で否定された。逆転写酵素でセントラルドグマがゆらいだ以上、獲得遺伝がある。断続平衡説は今西進化論の現代的な焼き直しであり、今西錦司はかなり良い線をいっていた。大進化が起こるのは、遺伝子に未知の変化が発生するからに違いない、などなど。
 
 これ、科学の本が好きな人が思い込んでいるだけではない。そう思い込んでいるサイエンスライターもいるんである。
 
 ∧∧
(‥ )でも論文と教科書の
\‐   世界に入ると
     がらりと様相が変ってしまう
 
  (‥ )ダーウィンの基礎理論
      メンデル遺伝
      フィッシャーの統計学
      木村資生の中立説
      性淘汰と血縁淘汰
      生存競争と淘汰圧
      つまりようするに
      ネオダーウィニズムだ
 
 ネオダーウィニズム:遺伝の仕組みが解明される前にダーウィンが理論を作ってしまったので、後から発見されたメンデル遺伝と統計学を20世紀に組み込んだもの、と思えば良い。
 
 つまり、科学の本が好きな人と、実際の科学と研究者の有様はまるで乖離しているのである。絶望的に乖離しているのだ。両者の間にはまったく全然、これっぽちも交流がない。しかも、それぞれの本自体は同じ書棚に並んでいたりするのだ。それにも関わらず、まるで断絶している。
 
 ∧∧
( ‥)これも好きな本だけを
    選び続けた結果だと
 
  ( ‥)本を読んで自慢げに
    ‐□ blogにアップする連中も
      教科書と見比べたら
      化けの皮がはがれる
      読めば
      あんたの読書は
      まったく無意味、
      投資した時間も手間も
      人生も
      そのすべてが全部無駄
      そういう状態だからね
 
 同じ書棚に本がある。手を伸ばせば手に取れる。時間さえかければ読むこともできる。参考文献を追跡すれば論文にもたどり着ける。
 
 だが、その一手が絶望的に遠いのだ。
 
 好きな本を読むべきではないんだろう、必要な本を読むべきなのだ。
 
 あるいは好きな本を読んだというのなら、語る事を沈黙するべきなんだろう。
 
 少なくとも、理解を語ってはいけない。
 
 しかし、それにもかかわらず人は理解を語る。ここに誤りがある。
 
 
 

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