( ‥)何にでも職業倫理ってのは
あるけども、妥当なことを
書く、というのは倫理では
正当化できないんよね。
∧∧
( ‥)そんなもん?
嘘をつく、虚偽の情報を
書くことは倫理に反するでしょう?
(‥ )皆が望む情報、一番売れる情報を
書いたら、その内容が虚偽、あるいは
煽りになりました。これいかに?
∧∧
( ‥)売るという職務は果たしましたが
虚偽が多くなりました。
そう答えます。
望むものを与えるという職務と、妥当なことを伝えるという職務がコンフリクトしている。
( ‥)真実を伝えるという姿勢も実は
破綻の源なんだよな。真実という
結論にデータを”合わせて”しまう。
∧∧
( ‥)メディアの言う真実って、権力の不正と
癒着、弱者の救済ってことに
しばしばなっていたりしますからね。
不正と癒着。まあ、そういうことは事実としてあるが、しかしそうでないことも当然ある。権力との戦いとか、糾弾とか、そういう使命感や(時にはこれぞメディアの倫理だとされることすらある)、それが目的になっていると、それ自体が虚偽の源になる。
道徳は現実じゃない。道徳という結果にデータを合わせることは現実からの乖離に他ならない。
その目的なり目標がなんであれ、結果にデータを合わせた時、その結論は妥当性を放棄している。
(‥ )売るという経済原理、望むものを
与えるという商売の原理、
より良い方向へ導こうという
目標。
∧∧
( ‥)それが全部、妥当性と乖離しうるのだと。
メディアだろうがライターだろうが、それらが持つ倫理観や義務感は妥当性を保証してくれるわけではない。
∧∧
( ‥)まあ、そもそも保証できない
のでしょうね。
( ‥)妥当性はデータを処理する方法論
それいかんに関わってくる。
倫理や義務感はそういう方法論では
まったくないからな。
メディアやライターの義務感や倫理観は、語っていることの妥当性をまるっきり語っていないし、語ることがそもそもできない。
ようするにメディアは、「正しいことを伝えるのだ」、という自ら提案したスローガンを自分では全然正当化できない。
端的に言ってしまえば、メディアやライターには実のところ妥当性というものが最初から無かったのだと言える。自分達が認識した真実とかいうファンタジーがあるのなら、妥当性を追求することなどできるわけがない。
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