ピルトダウン人。科学者が40年間も見抜けなかったのだから、やっぱり科学で正しいとされることとか、身の回りの常識とかそういうことを疑おう。
∧∧
( ‥)という意見や思いは世の中に多く見られますね
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(‥ )言ってることのある程度は正しいよね。
妥当とされていることが未来永劫にこれからも妥当であり続けるわけではない。
そういう意味で妥当性を検討しよう、という意味なら間違いではない、たぶん。
(‥ )でもさあ、例えばの話、さっきも書いた→*けども
骨の同定できないやつがピルトダウン人を
例に上げて「疑おー」っていくら言ったって
意味ないんだよな
∧∧
( ‥)疑い方や思いついた答えの妥当性を調べる方法論が
ないと妥当な答えに辿り着けませんしね。
そもそも疑おうとか言うより前に
(‥ )自分が実在することを疑ったり、
自分はすでに脳みそだけで電極でつながれて
夢を見ているだけだとか疑っているのかな?
∧∧
( ‥)さあ? でも真剣にそういうことを疑う人がごく少数で
あるらしいことからすれば、人間を脳だけにして電極で好きに夢を
見せる技術なんてまだないと思っているのかもしれませんね。
もしもそう考えている人がいたら、その発想は極めて奇怪。
そんな技術はまだない、ということ自体が自分の経験でしかない。そして、今問われているのはその経験それ自体が本物であるかどうか。
∧∧
( ‥)人間を脳だけにしてバーチャル体験させる技術はまだないから
私が見ているこの世界はリアルであるというのは、
ただのトートロジーで、説得力は0かも知れませんね。
(‥ )疑えって言うのは楽だけどさ、
世の中で使われる「疑え」って
疑っているとはとても言えないもの
なんじゃねーの?
そもそも疑えって何をどう疑えばいいんだい?
∧∧
( ‥)まずは疑い方を疑えと。
(‥ )疑問を持つのも疑うのも結構だけども。
疑い方を知らなければ結論それ自体が疑わしい。
というか妥当性が疑わしいよな。
∧∧
( ‥)基準がないと結論の質を判断できませんからね。
(‥ )疑うことは答えでもないし、答えを探索する
ことですらない。
疑え、というのは答えを探索する動機にせいぜいなるくらい。
疑って、それからどうしましょう?
疑っても、手にした結論、その質はいかに保証される?
どの答えも同じだという答えもありうるが、その答えの正しさ、極めて疑わしい。
∧∧
( ‥)疑って手にした結論、その妥当性を疑え。
(‥ )あるいは問うべし。しかし必要な「答えの選択基準」
肝心なそれは手にしているか?
疑え、問うべし。
いや、しかし、言うは簡単だけども、そもそもそれは答えでもなければ、答えの質を保証しない。
疑いによって何を満たしたのか、疑いそれ自身は何も語らない。