∧∧
( ‥)なんでギンザメとかが載っていないんですか?
\- という問いですが?
(‥ )いや、実はおいちゃんもそれが
なぜなのかは知らんのよ。
さて
∧∧
( ‥)ある仮説が駄目かどうかは個々に検討すればすむ話ですし、
それをニセ科学とか疑似科学と呼ぶのかは、またそれぞれの
話ですが。
(‥ )でも、そこにこそ混乱の根っこがあるのかもしれん。
1:ある仮説の妥当性を検討する
2:その結果を受けてその仮説をニセ科学という
∧∧
( ‥)1は仮説が現実をうまく説明できているか、
その度合いを測ることだとも言えますね。
(‥ )1は自然科学の営みなんだよな。
でも、2はむしろ分類学の問題だよね。
駄目な仮説にニセ科学、疑似科学、トンデモ、病的科学という名称を与える。あるいはそのような名称で呼称されているカテゴリーに入れる、というのは。
∧∧
( ‥)それは自然科学ではなくて、心理学、
あるいは分類学の範疇なのであると。
(‥ )分類学って困ったことに「どれがよりよい分類体系」
なのか、それを具体的に表示するパラメーターが
ないんだよな。
*「種」や「分類」には推定すべきパラメーターは何もないからである。三中信宏2009 「分類思考の世界」pp299
この指摘は当たり前のことのはずだったのだけども、初めて読んだ時は衝撃をうけてしまった。
( ‥)そうなんだよなあ、そういうの無いんだよなあ。
分かっていたはずなのに、改めて言われると、
個人的にあれは強烈なインパクトだった。
∧∧
( ‥)でも分類学の世界でも、よりよい分類体系や
それを可能にする方法論をめぐる議論、
それ自体はあったじゃないですか。
(‥ )でも表形学者も分岐学者も、結局、
分類の世界から離れて系統の世界へ
いっちゃったじゃないよ。
∧∧
( ‥)じゃあ、分類にはそういうのは必要ないって
ことなんじゃないですかね?
まあ、たぶん、そうなんでしょうねえ。
∧∧
( ‥)とっ、いうと、例えばどれをニセ科学とするか、
という明確な基準も解析方法も、ましてや
パラメーターも存在しないと。
(‥ )”ある仮説をニセ科学かどうか”、データから
そういう判定をする解析手段なんて実際にないぜ。
でっ、そういうのがなくても僕らは仮説の
妥当性を知るさいには何の問題もないんだよ。
仮説Aは駄目でした。が分かればそれでいいのであって。それを単純に敗北した科学理論と呼ぶのか、ニセ科学と呼ぶのかは、実はおまけのようなもので、そしてその部分は自然科学でもなんでもない。
∧∧
( ‥)仮説の妥当性を推し量る物差しはあるけども。
(‥ )仮説にどんな名称を与えるべきかの
物差しは人間の脳の中にしかなくて
たぶん、ブラックボックスなんだよ。
∧∧
( ‥)でっ? それがどんな問題を引き起こすと?
(‥ )分類の話は決着がつかないよね?
だって比較するパラメーターがないのだから。
∧∧
( ‥)分かっている人は、それをニセ科学と呼ぼうが
呼ばなかろうが、議論が起きれば
”妥当性の根拠”を開示できるでしょう?
(‥ )でもそれができない人間は”ニセ科学”という
パラメーターがない呼称やカテゴリーを
そのまま用いて議論を続けるよね?
「ニセ科学批判をする人は科学万能主義者だ」、「科学教だっ!!」って言い様もあるけども。結局のところ、それらだってパラメーターなんてない単語の使用法だよね。
比較する手段を持たないカテゴリーで議論を展開するとは、その結果はいかに?
∧∧
( ‥)不毛な議論が展開されるでしょうね。
(‥ )両方、あるいは片方が物差しを持っていない状態で
長さの議論をするとしたら、そりゃあ大混乱だよね?
∧∧
( ‥)できる人は名称の奥に隠されていた妥当性を
ただちに展開、開示できるんですけどね。
(‥ )でも、物差しのない人間は
相手が妥当性の展開を行っても
ぱかーんと見ているだけじゃないのかね?
物差しがなければ妥当性の展開を推し量れないし、その意味すら理解できないだろう。
∧∧
( ‥)コミュニケーションのすれ違い。
(‥ )議論の前進、観測されず。
*この場合の物差しとは妥当性を測る物差し、という意味。