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ときて
∧∧
( ‥)それで?
(‥ )まとめると・・・・
1:ある仮説が妥当であるかないかを決定するのは自然科学の範疇
2:駄目な仮説を疑似科学とするか、ニセ科学とするか、トンデモとするか、あるいは異常科学と呼ぶのか病的科学と呼ぶのかは分類学の作業
(‥ )なにをニセ科学と呼ぶのか、という
認識の妥当性を評価してくれる解析手段はない
∧∧
( ‥)まあ、最低限、聞いたことはないですね。
*端的に言うと、ある仮説をニセ科学と呼ぶか呼ばないかは科学ではない。
∧∧
( ‥)ところで、科学ってなんでしょうね?
(‥ )恣意的な定義によってか、
あるいは人間の認識で切り出された
人間の営みの一部だろ?
科学は定義もできなければ実在もしない。人間の営みや人間の思考や思想は伝播したり、水平移動したり、複雑にからみあったり、ぱっと産まれて急速に広がったり、あるいは滅びたり。科学とされるものと、科学であったものと、科学でなくなったものと、最初から科学でないものと、これら全部が全部、奇怪なまでに交差しあっているので、境界線がはっきりしないどころの騒ぎではない(例えばの話、科学って単系統群なんですかね?)
それにそもそも科学を定義してもいいけども、その定義の妥当性を測る解析手段はどこにあって、その解析手段の妥当性はどう担保される?
∧∧
( ‥)科学を定義、認識する科学的な手段はどこにあるんだ?
ということですか。
(‥ )だからじゃねーの? 科学者って自分の論文で
結果の妥当性を述べる時に「これは科学です」なんて
普通は書かないだろう。彼らはそんな言葉より
使える道具を持っているし、それを使う。
ひるがえるに、人の営みを解析して、これこれで科学、これこれの値でニセ科学と判定する妥当な解析手段はあるか? たぶんない。
∧∧
( ‥)でも、それでいったら最初の「妥当であるかないかを決定するのは
自然科学の範疇」、という言葉はどうします。
(‥ )以上はこう翻訳すればいい?
1:仮説の妥当性を判断するには「それ自身の妥当性が示された解析手段」で解析すればよい
2:1によって駄目になってしまった仮説をなんと呼ぶかは1の範疇ではない。事実として「駄目な仮説やその周辺の人間の営みに名称を与える妥当な解析手段」は(たぶん)存在しない
( ‥)こんな翻訳に意味があるのかどうかは知らないけども、
少なくともだ、
科学は科学なんて言葉を使用する必要がないほどに
様々な道具を持っているのは事実。
∧∧
( ‥)ニセ科学は、それをどう認識するかにもよりますが
一般的にはそんな道具も解析手段も持っていない
みたいですね。
たぶん科学という名詞は、それ自身では自然科学ではない。
∧∧
( ‥)そりゃあね、名詞は自分自身では自分を正当化できないでしょう。
名詞にそんな力はありません。
言霊とやらは文字、言語を見た、聞いた人の
脳で起きる現象でしょうしね
(‥ )科学という名詞に指示された対象は自分たちの
妥当性を示す技を持っている
(たぶん、だから研究者は無茶なテストをして死ぬ)
でも、名詞や呼称自体にはそんな力も技もない。
思うに、科学という名詞が自分自身では無力だから、時にニセ科学が「科学」という言葉を使用するやもしれぬ。
∧∧
( ‥)まあねえ、名詞に力がないのなら
自分自身の仮説に妥当性がなくても
”これこそ科学”と、名詞自体を自らに冠することはできますからね。
(‥ )統計学使いました、という嘘もつけるけども、
科学ですって言えば、もっとずっとあいまいで
遠いからごまかしが効くし。
科学という言葉は、科学自身の営みからえらい離れていて、具体性がない。というか解像度が低すぎる。当たり前だけど。
∧∧
( ‥)もともとざっくりと指示するための単語ですからね。
そりゃあそうでしょうよ。
( ‥)ニセ科学と呼称される仮説の妥当性を論じる時、
科学という単語もニセ科学という単語も
使う必要はないんだよな。
∧∧
( ‥)ところがその名詞で論じてしまう人がいると。
(‥ )妥当性がないまま提案された名詞で論じる人もいれば
反対に、その名詞が指示する作業や解析手段、結果、
その妥当性に至るまで、がばっと展開する人もいる。
∧∧
( ‥)でも、議論は噛み合わないでしょうね
(‥ )かみあってないよねえ。
噛み合うわけが無いよなあ。
科学とかニセ科学とか、名詞や認識にこだわっても、妥当性は得られることはなく、議論は噛み合わずに不毛に終わる。
∧∧
( ‥)そりゃあ、科学とかニセ科学という名詞や認識は
解析手段で妥当性が示されたものではないですからね。
(‥ )でっ、最初の話に戻るんよね。
あるいは要約するとこう?→*