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2013年12月8日日曜日

自分であることを証明できるか? それは問いが間違っている

 
 昔、学校の教科書に曰く、こんな小話が
 
 少年が何者かに問われる
 
 お前は誰か? と
 
 少年は名前を答えるが、しかし、
 
 自分がその名前の本人である事を、お前は証明できるか?
 
 そう問われていくうちに少年は答えに窮してしまう。
 
 ∧∧
( ‥)自分が本人であるという
    証明は難しい
    そういう話なんだけども
 
  (‥ )でも実はこれさ、
      証明がどうとか
      どうでも良い話で、
      証明とか演繹だけでは
      こういう問題ですら
      解決出来ないんだよ、
      という話なんだよな。
 
 この小話の書き手は多分、そういう意図で書いたわけではないのだろうけども、実際にはそういうことだ。自分がある名前で呼ばれていて、その名前の持ち主が自分であることを論証する過程は証明ではない。
 
 ∧∧
( ‥)それはむしろ証拠の
    一致ですよね
 
  ( ‥)名前、戸籍、生年月日
    ‐□ 本人の申告と、
      周囲の人の証言、
      役場の記録
      学校の記録、その他
      こうした情報の整合性から
      この人は誰々です、と
      推論し、結論づけるのだ
 
 
 そしてこの論証の過程は証明でも演繹でもない。
 
 実際、証明だというのであれば、なぜ、戸籍の裏取引、あるいは成り済ましとかそういうことがあるのか? そして証明だというのであれば、なぜその可能性を排除できないのか?
 
 それはこの論証が証明ではないってことだ。
 
 ∧∧
(‥ )それを考えると
\‐  お前は自分が本人であることを
    証明できるのか?
    という哲学的な問いに対する
    答えはですよ
 
  (‥ )そりゃあ、あんたの
      質問が間違っとる
      そう答えるべき
      なんだろうな
 
 つまるところ、小話の中の子供が答えられないのは当然なのだ。そもそも質問が間違っているのだから。
 
 間違った質問に正しい答えなんかありはしない。

 問いがそもそも無意味である、お前は自分の質問の意味すら理解できていない、と答えるべき。
 
 
 

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