書き手も読み手も、教える者も教えられる者も、それは結局のところ単なる人間だ。
そして人間は工業製品ではなく、ゆえにその品質、保証されていない。我々は生物であって機械じゃない。
ましてや分かった、理解したとは、把握したという仮説にすぎぬ。
あるいはもっと悪くてただの自己申告か単なる感想。
∧∧
( ‥)ゆえに
( ‥)分かりやすい。分かりにくい。
分かった、分からない。
それで君は一体全体何を誇る気か?
まさかそれで分かったとか分からないを説明できたと思ったわけじゃあるまいな?
∧∧
( ‥)本とはいかに
(‥ )一冊の魔道書があるとしようじゃないの。
読んである条件を満たすとその本を書き写し、そして使用できる。しかし失敗すると死ぬ。平均して1000人のうち、999人があたら命を落とす。だがしかし、平均1人は条件を満たし、使用することができ、そして書き写す。
( ‥)本の耐久年数が尽きる前に
1人以上、それに至れば良い。
∧∧
( ‥)かくてその本は生き残り、
書かれた内容は受け継がれると。
寿命と転写、転写に対するテスト、現象の継続にはそれで十分。
分かるなんて言葉でテストをごまかすんじゃねえよ。それは逃げだ。
(‥ )ぶっちゃけた話、本っていうのは
読者のために存在するわけでも
なんでもないのさ。インフルエンザは
人間を病気にするために存在する
わけじゃないのと同じでな。
∧∧
( ‥)読者に読まれたいとするのは
製造過程の新陳代謝に必要な
エネルギーを得るためですからね。
だからゆえに”ふかし”が蔓延する。しょうがないのだ。媒介物である人間の心理に適応した結果がそれだ。これ自身はしょうがない。しかしその本は増殖率こそ良いが、世界を操作することにはまるで向いていない。その中身はまやかしだ。
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( ‥)妥当性を追求するのなら
本は血塗られた魔道書であれと
(‥ )ようするに、何人犠牲が出たって
かまわんのよ。成果と、犠牲に対する
十分な対価さえ得られるならな。
実際、世界を操作する対価を得るために、どれだけの人生と命が消費されてきたか、知らないわけじゃあるまい?
本がすばらしいものであるわけないだろう?
本が楽しいものであるわけがないだろう?
本が良いものであるものか。
本を読めば頭が良くなるとか、たわ言を信じているのじゃあるまいな?
本来、本というものは現実さえも改変できる力を秘めた、邪法を越える血塗られた魔道なり。
だから、さあ、妥当な理解が欲しいと言うのなら、対価としてその命を削れ、そして捧げろ。それだけの価値があり、可能であるのなら、テストのすえに出来る者に対して出来ることが受け継がれる。
かくあるべし。
( ‥)テストに従う苦痛と恐怖の世界
それが本というものだ。
ゆえに苦しみをばらまくべし。
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( ‥)それで何かが未来へ続けば
結果オーライですね。
自分たちはいずれ、あっという間もなくはかなく消える。ならば、自分の感想と想いなど無意味。世代を超えるだけの普遍の通貨を語れ。
人の生は無意味だ。人生に一片の価値もない。我ら何事もなしえずにただ死にゆき、まったく無価値に全てを終える。だが、それだからいい。