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2015年1月15日木曜日

多神教でもないし一神教でもない可能性

 
 イスラームでは預言者を描くことは禁止されている。
 
 ∧∧
( ‥)預言者は神ではなく
    あくまで人である
    預言者を
    崇拝するようなことは
    あってはならない
 
  ( ‥)神を描いてもならないし
    ‐□ 作ってもいけないし
      それと同様
      預言者を描いても
      作ってもならない
 
 これはセム語族の人々から始まった一神教の根幹でもあった。旧約聖書、モーゼの十戒にも偶像崇拝の禁止が明瞭に言われている。
 
 ところが、キリスト教にはイエスや聖母マリアを描いた聖像を崇めるイコン崇拝があったり、あるいはイエスの磔刑の様子を描いているし、あるいは像を作り教会に安置している。
 
 ∧∧
(‥ )キリスト教が
\‐  多神教化していると
    言われてしまう
    ゆえんだね
 
  (‥ )そもそも三位一体
      父と子と精霊
      これはギリシャ・ローマで
      三柱の神を一組で
      表わしていた様式と
      形式が同じだからな
      そりゃ疑惑も持たれるわ
 
 キリスト教は一神教ではあるけど、多神教化したでしょ? そう疑われるのは当たり前だろう。そもそも旧約聖書に書かれた戒めに反しているのだ。この説明は難しい。
 
 *ある意味、神学の役割はひとつにはここにあったと言えるやもしれぬ。三つのペルソナを持ちながら、しかし実体はひとつ。唯一の神。すなわち三位一体。一般の信徒はともかくとして、真面目に考えれば三位一体と一神教を矛盾無く成立させるには努力が必要だ。
 
 それにしてもなにゆえにこうなったのであろうか?
 
 セム系の人々からインド・ヨーロッパ語族の世界に一神教が入った時、インド・ヨーロッパ語族の文化に影響を受けたのであろうか。
 
 あるいはその文化に布教するためにこそ、そういう形式を取るようになった、そういうことであろうか。
 
 これは多神教に慣れ親しんだ受け手による単なる誤解であったのか
 
 あるいは意図的になされたものなのか
 
 それは分からない
 
 
 ∧∧
( ‥)とはいえ
 
  (‥ )すごく悲観的に言うと
      西欧人って
      多神教徒に対しても
      一神教徒に対しても
      神経を逆なでするような
      人たちかもしれんな
 
 多神教徒に対して自分の価値観だけを一方的に押しつける。これはよく言われる。単純すぎる見解のようだけども思い当たることは確かにある。
 
 考えてみればクジラをあやうく絶滅寸前にまで追いつめたのは西欧人だが、今では捕鯨を続ける日本をあしざまに罵るのである。
 
 考えてみれば奴隷貿易で文化や共同体を大破壊したのは西欧人であるが、今では奴隷制を批判する急先鋒である。
 
 つい最近まで面白半分に人間狩りをしていたような連中が、手のひらを返してこれを言う。
 
 考えてみれば風刺漫画で他の文化圏や他人の気分を逆なでする一方で、日本のエロ漫画には目くじらを立てるのである。
 
 そして、一神教徒に対しては、預言者をまるで偶像崇拝を思わせるような形式で描いた上に、それをおちょくるということをやってのける。多文化共生とか言いつつ、結果はこれだ。
 
 風刺漫画は表現の自由以前にただの商品であり売り物だ。それは人々の需要があることを示しており、それは人々の認識をも示しているだろう。
 
 つまりこれが彼らの認識。
 
 人間は平均すればただの粗野な田舎者で自分たちの村以外のことにはまるで無神経だ。だが無神経さにはそれぞれ村の個性が出る。
 
 ∧∧
(‥ )西欧の無神経さは
\‐  単一の価値観を
   正しい正しいと押しつけるのに
    一神教の根幹は理解できて
    いないような行動だと

 (‥ )悲観的に言うと
     西欧キリスト教は
     一神教と多神教の
     悪いところを合体させた
     ように見えるな
     楽観的に言うと
     逆になるはずなんだがな
     なんかそうは見えないな
 
 考えてみれば、彼らの文化はかなり妙かもしれぬ。
 
 西欧社会では個を確立していない人間は軽視されるのです、そう言われる。
 
 その一方で、彼らは個人主義でものすごく孤独ですよ、とか言われる。
 
 あるいは、宗教にこうしろと命令されているから慈善はするけど、彼ら自身は親切などではないよ。そう評する人もいる。
 
 ∧∧
( ‥)実は
    宗教の命令として道徳を
    プログラムされた個体が
    ただ雑然と集まっているだけ
    なのかもしれない
 
  (‥ )例の疑惑だな
  
 ダーウィンが進化理論を提案した時、その衝撃は日本人などには理解しがたいものがあった。神の存在を前提しない理論。彼らにとってそれは神の存在を否定するように見えた。
 
 神と天国と地獄と審判が存在しない可能性。
 
 このことに彼らは震え上がったのであった。神も審判も存在しない世界では、人間は獣になってしまうのではないかと。
 
 日本人からすれば、はあ? 何言ってるの? の話なんだが、彼らはそう思った。
 
 *ついでに言うとダーウィンも、別にそんなことないでしょ、と思っていた。未開人なり野蛮人なり、当時そう呼ばれていた人々にも倫理や道徳や謙虚さがあるということを、彼は経験上知っていたからだろう。というかそのことを書いている。
 
 ともあれ
 
 ∧∧
(‥ )西欧人は神の否定は
\‐  倫理、道徳、社会の崩壊と
    考えたわけだね
 
  (‥ )これは疑惑だ
 
 西欧人は個が確立していると言えば聞こえは良いが、入力されたプログラムに沿って行動する個体が存在するだけで、実際には社会なんて形成していないんじゃないのか?
 
 社会全体が関連性を持って動いているように見えて、実はプログラムに命ぜられた通り、A地点からB地点まで歩く個人がそれぞれいるだけで、それは複数ではあるが、集合でもなんでもないのではないのか?
 
 ∧∧
( ‥)この疑惑はあまりにも
    極端だけどね
 
  (‥ )とはいえな
      相互監視とリンチによる
      相互作用
      つまり宗教によらない
      倫理と道徳で群れを
      形成している日本と
      まるで違う社会の可能性
      そもそも
      あれが社会であるのか
      それすら怪しい可能性
      これは念頭に入れて
      置いた方が良いかもよ
 
 実際、そうとでも考えないと理解が甚だしく困難ではなかろうか。多文化共生と言いつつ一神教徒なら絶対やってはいけないことをしたり、それが商品として皆に望まれていたり、それで相手を不快にさせたり、さらにトラブルが起こると今度は言論の自由という価値観を掲げて絶対の行進をするという動きは、傍から見ているとどうにもチグハグで混乱的に見える。
 
      


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