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2014年7月14日月曜日

本を読んで分かって理解して、それが一体何だというのだ?

 
 その本を読んだぐらいでその本を読んだと思うのは愚劣の極みであるし、本を読んだぐらいで本を読めたと思い込んでいるのならそれはまったく救いようが無い。
 
 ∧∧
(‥ )読んだは読んだだけ
\‐  分かったは分かっただけ
    理解したは理解しただけ
    すべてそれだけ
 
  (‥ )そういうものだってこと
      我々誰しも学生時代に
      いやって言うほど
      経験したはずなんだけどね
      大人は現実から
      すぐに逃げ出すからな
      手に負えん

 
 読んだがテストは駄目だった
 分かったはずだのにテストは駄目だった
 理解したはずなのにテストは駄目だった
 
 読んだも分かったも理解したも、まったく何も保証してくれない。こんなこと、誰だって経験したはずではなかったか?
 
 ∧∧
( ‥)現時点では暫定的に
    こうであります
    そう言うのが
    精一杯のはずであると
 
  ( ‥)テストで検証する
    ‐□ そうするまで
      我々は
      保証を述べることが
      出来ないのだよ
 
 その検証にしても、しなかった時よりはるかに状況は良くなってはいるものの、究極的にはやはり暫定的なものである。
 
 思うのだが、読書をする人は読む事、それ自体を目的化した結果、確認作業を怠っているとしか思えない。
 
 ∧∧
(‥ )勝負の無いスポーツなんて
\‐  ものがあるとしたら
    それは独りよがりな
    ものに成り果ててしまうだろう
 
  (‥ )読書というものが
      とっくの昔に
      そんなものへと
      成り下がっている可能性
      それは検討するべきこと
      だろうね
 
 脳神経もその点では筋肉と同様だ。使う場所が強化されるのだ。
 
 つまり、検証とテストをしない脳神経は、脳みそ筋肉以下の妄想機械に成り果てるだろう。分かっただけをまき散らす、公害装置になってしまうのだ。
 
  これはhilihiliのhilihili: 確かにスポーツは良い ちゃんと基準があるの続き
 
 
 
 
 
 

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