こんな感じ?
文化は元になったものよりも、その出力の方が枝葉が多く、過剰装飾気味。つまり入力時にはなかったものがやたらとくっついてくる。
∧∧
( ‥)科学は?
(‥ )現象を説明できるなにかざっくりした傾向を
切り出してくる感じ?
考えてみれば当たり前で、複雑怪奇な方程式なんて使い勝手が悪いことはなはだしいし、そんなものは時にはなんでも説明できてしまうので、
∧∧
( ‥)いわゆる反証不可能状態に
陥ると。
(‥ )つまり間違っているのか間違っていないのか
分からないから、だめだー、とね。
つまり
文化は過剰装飾
科学はシンプルがベスト
ということ?
∧∧
(‥ )えらいシンプルな文化もあることは
\- あるみたいですが・・・
(‥ )抽象画とか枯山水みたいにかい?
でもあれは説明ではなくてむしろ表現だよな。
とはいえ、表現とは、あるいは世界観の説明かもしれない。
しかし個人の世界観の説明は世界の説明ではないとも言える。
∧∧
( ‥)科学の世界観ってものもあるでしょ?
(‥ )仮に「世界を適切に説明できるシンプルな仮説を良しとする」
が世界観というのなら世界観なんだろうね。
外部の現象を説明する仮説を発見、検証するにおいて適切と思われる方法論
私は世界をこう受け取りました、私が見る世界の有り様とはこういうものです
どちらも世界観というカテゴリーには包含できるかもしれないけども(世界を受け取った、見回した、という意味では共通点があるのでそれでくくれるという意味)、しかしずいぶん違うよなあ。
つまりこう言えばより正確?
世界を説明するベストをチョイスする方法論と、私は世界をこう受け止めましたという思いの間には距離がある。そういう意味では、
∧∧
( ‥)科学は世界をシンプルに説明することを発見し
文化は自分を出力して表現する営みであると。
(‥ )だから文化はしばしば過剰装飾、あるいは逆に
そのチョイス不明な過剰削減に至る、これが近似?
当たり前の話だけども、枯山水の海、山の表現は、海、山という現象の説明ではないよなあ。
砂利にしかれた溝の列は波の表現、ひいては水の表現かもしれないが、水や波という現象の動態を説明する仮説であるとはとても思えない(実際、記述できない)。
∧∧
( ‥)科学と文化が対立するのは当然かもしれませんね。
(‥ )野山をめぐる野蛮人と都会で詩を吟ずる貴族様とは
相容れないものなのよ。
公園へいったら朝の鳥の声とカエルの声は美しかった。詩吟をろうろうと詠うばーさんがいたけども、彼女は鳥の声をたぶん聞いていない。