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2014年6月18日水曜日

読書とは、頭脳は子供、誇りは大人

 
 ∧∧
( ‥)つまり?
 
  ( ‥)そうねえ
    ‐□
 
 子供向きの本を書くと、馬鹿みたいな子供騙しの内容、という反応が返ってくる。
 
 ∧∧
( ‥)大人が絵本を読んで
    どうするのよ?
 
  (‥ )世の中にはこれが
      大人向けの本なのか
      子供向けの本なのか
      識別出来ない連中が
      うじゃうじゃいるんだよ
      間抜けな話だがな
 
 反対に、大学生程度向けの本を書くと
 
 ∧∧
(‥ )今度は理解ができません、と
\‐
 
  (‥ )そりゃあ、おれたちゃ
      もう大学生ではないのでね
 
 大学生だって、その時だけの短期記憶と暗記勝負、傾向と対策で受験を突破してきたのである。
 
 傾向と対策だ。
 
 それは能力の限界を示した言葉であり、必然、我々の平時における能力はそれをずっと下回ることになる。そうであろう?
 
 端的に言うとこうだ、大学生レベルの本を今や平時の能力しか持たない大人が読むこと、これは原理的に不可能。
 
 
 ∧∧
( ‥)受験と学生時代
    何度かのテストを
    切り抜ければ
    人はそれぞれ
    生きるのに必要な
    一芸のみを磨いていく
 
  ( ‥)僕らにはそれしか
    ‐□ できないのだよ
  
 これもまた傍証だ。僕らの能力が大学生よりも、その時代の自分自身からさえもはるかに劣っている証拠だ。能力があるのならもっと多方面に器用に生きたって良いはずなのだから。
 
 まあ、こう言うと烈火の如く怒り狂って反論する連中がいるのも確かではある。
 
 彼らは言う、我を見よ! 我が蔵書の山を見よ!と。
 
  だがしかし、まあなんだ、色々な例があるが、例えば理系の本に関して論じてみよう。グールドや今西錦司の本はそれなりに売れたし、それを多くの知識人や文化人、読書家が愛読し、推薦したが、所詮は間違っている。この痛ましい事態こそが結論でもある。
 
 つまり、読んでも、読めても、そんなことには意味がない、ということだ。
 
 読んでも、読めても、そんなものは能力の論証にはならん、ということだ。
 
 読んでも、読めても、理解しても、納得しても、説明できても、そんなものは何の保証にもならぬゴミかすである。
 
 これはすなわち、誰よりも本を読めると自負する人々の営み、読書家の読書というものが、所詮は自分の思い込みで物事を解釈しているだけの巨大なトンデモ幻想に過ぎぬということを示唆している。
 
 私たちは小学校の時から何も変化していないのではないのか? 少なくとも読解力とかそういう能力は、あの時に凍結されたままではないのか? そんな稚拙な能力のまま、騙し騙し、自分まで騙してここまで来たからこんな愚かしいことになっているのではないのか?
 
 
 ∧∧
( ‥)読書とは
    プライドだけは高いが
    読解力は小学生のまま
    誤読と思い込みを
    積み重ねた妄想でしかない
 
  ( ‥)つまりあれなんよな
    ‐□ 正しい本を書いて
      なおかつそれを
      人々に読ませるには
      内容は小学生向け
      しかし、言葉だけは
      小難しくして
      一見すると
      大人向けの本であるように
      偽装する
      そうすべきなのだな

 
 頭は子供、プライドは大人。そうだというのなら、そうしなければならぬ、そういうことなのだろう。
 
 ∧∧
(‥ )でもあなたの仕事の予定は
\‐  2015年までは
    大学生向けの本か
    子供向けの本か
    そのどっちかしかないよね
 
  (‥ )やるとしたら
      2016年以後
      そういうことだよねえ
 
 とはいえ、そんな先の予定は何一つとしてたっていないのであった。
 
 しかし、これはテストであり、思案であり、計画とテストは未来への筋道を作り出す。
 
 ∧∧
( ‥)何もかもが五里霧中である時
    こんな計画でも
    無いよりましだと
 
  ( ‥)おれは他人の気持ちが
    ‐□ よく理解できないのでな
      なんでも良いから
      取りあえず把握の指針が
      欲しいのよね
 
      
 

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