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2012年2月11日土曜日

ないなどありえないのではないか?

 物事を判断するさいには、物語と確信が重要であって、数学的な処理は欺瞞ではないか? という人もいる。
 
 
 
 ∧∧
( ‥)しかし
 
   ( ‥)そうだなあ、何かを認識し、
     -□ それを手がかりに推論する時、
       僕らは座標を用いている
       実はそうではないか?
 
 ∧∧
( ‥)座標ね
 
    (‥ )あれがこの位置にある、あの人が
        あそこにいる、これとこれが
        折り重なっている、そこから
        ストーリーをつむぐにしろ、
        仮説を立てるにしろ、
        あるいは推理するにせよ
        僕らは複数の証拠の空間的、
        時間的配置を考えている。
 
 ∧∧
( ‥)証拠やデータから物事を推論する。
    証拠となった複数のデータは
    すべてが同じものでもなく
    当然、同じ点にあるわけでもなく、
    同じ時間、同じ空間にあるわけでもない。
 
    (‥ )同じ点、同じ時間にあるのならそれは
       1つの証拠、そこからは何も推論できない
       複数の同じでないデータがあるから
       僕らは推論ができる。それらは
       空間、時間の広がりの中にある
       それらはいかに場所を指定されるか?
 
 
 指定するものは座標に他ならないのではないか?
 
 ∧∧
( ‥)僕らは座標を持ち、ある空間に分布する
    データを見て、その分布の有り様から
    分布を説明する推論というグラフを引き、
    それを判断と呼ぶのです
 
    ( ‥)つまりこうではないのか?
 
 物事の判断を我々が下す時、そこに数学的な処理が入っていないことなどありえない。
 
 

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