物事を判断するさいには、物語と確信が重要であって、数学的な処理は欺瞞ではないか? という人もいる。
∧∧
( ‥)しかし
( ‥)そうだなあ、何かを認識し、
-□ それを手がかりに推論する時、
僕らは座標を用いている
実はそうではないか?
∧∧
( ‥)座標ね
(‥ )あれがこの位置にある、あの人が
あそこにいる、これとこれが
折り重なっている、そこから
ストーリーをつむぐにしろ、
仮説を立てるにしろ、
あるいは推理するにせよ
僕らは複数の証拠の空間的、
時間的配置を考えている。
∧∧
( ‥)証拠やデータから物事を推論する。
証拠となった複数のデータは
すべてが同じものでもなく
当然、同じ点にあるわけでもなく、
同じ時間、同じ空間にあるわけでもない。
(‥ )同じ点、同じ時間にあるのならそれは
1つの証拠、そこからは何も推論できない
複数の同じでないデータがあるから
僕らは推論ができる。それらは
空間、時間の広がりの中にある
それらはいかに場所を指定されるか?
指定するものは座標に他ならないのではないか?
∧∧
( ‥)僕らは座標を持ち、ある空間に分布する
データを見て、その分布の有り様から
分布を説明する推論というグラフを引き、
それを判断と呼ぶのです
( ‥)つまりこうではないのか?
物事の判断を我々が下す時、そこに数学的な処理が入っていないことなどありえない。