「分類思考の世界」ふとたわむれに検索をかけてみたり、色々な書評をチラ見すると、それこそ色とりどりな書評があるらしい。例えば曰く、著者は種実在論に不都合な証拠ばかり集めていないか? 例えばルイセンコとか、という論評。
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( ‥)へーそう読み解く向きもありますか
( ‥)いや、なるほどね。
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個人的にはこう。かつてポパーはプラトンからマルクスへと続く知的伝統が本質主義を作ったと主張したが、実のところ例えば種に本質的なものがあるのではないのかと考える傾向はとんでもなく広く、あらゆるあまねく色々な立場、人物に出現する。
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( ‥)ようするに知的伝統とかそういう生易しいもんじゃ
ないってことですよね。
(‥ )例えばこう? 種や本質は一部の人々に憑いているものではなく
我々全員の背後にすべからく立っているものである。
さもなきゃこんなにあらゆる場所で顔を出してきたりしないでしょう。マイヤはマルクス主義者ではないなのか? と問われたり、ヘニックでさえ種に関して何かあるのだと考えている。
(‥ )種とは人間の知恵から出たものではなく、
人間の心からにじみ出たもの
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( ‥)まあ、あなたはそう受け止めるわけですね。
ルイセンコが廃滅した後もその残滓が種に関して残るのだってひとつにはそのせいなんでしょうね。知的伝統もさることながら、その部分だけはまま呑み込んでしまう素地が我々にはあるのであって。
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( ‥)だから不利な証拠を集めたというよりは
(‥ )種というカテゴリーの起源と来た場所を、
あるいはその歴史をあるいはその有り様を論じている。
そう受け止めたのだけどね。
この解釈自体が妥当かどうかは、さてどうだろう。確かに書評というのは本を論評したその人自身の能力が論評される恐ろしい場所なんであり、ほいほいと書評を書くのも、そりゃあどうかねーと思うのでありますよ。
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( ‥)そういうあなたはどうなんでしょうね?
( ‥)さあ、どうだろうねえ。
書評自体の妥当性はどう検証したらいいと思う?
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( ‥)書評は解釈で、それ自体を支持する単語/表現/文脈が
書評された本の内部/あるいは関連する書籍の中で登場するか
どうか、それらの整合性で判断するしかないんじゃないですか?
(‥ )そんな感じかなー。