自己紹介

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2015年10月23日金曜日

賢しいジャーナリズムは疑似科学

 
 要するに、
 
 何がまともなジャーナリズムなのか? 
 
 その問題は

 それは科学か疑似科学か? の問題と同じ
 
 ∧∧
(‥ )まあ疑似科学と科学の識別も
\‐  簡単ではないですけどね
 
  (‥ )疑似科学を一括して
      定義できるような
      特徴は存在しないし
      疑似科学か科学かの識別は
      個々の事例で
      各々論じるしか
      ないだろうなあ
 
 とはいえ、次のようなことはざっくりと言えよう。整合性を無視し、検証をおろそかにしたり拒否するようでは科学ではないし、ジャーナリズムでもない。それは疑似科学であると。
 
 ∧∧
( ‥)それとても線引きは
    できないけども
 
  (‥ )線引きは無理だな
      とはいえだ
      線が引けなくても
      距離は存在する
      程度が強烈だと
      申し開きは難しくなる
      それでも検証を拒否し
      自説を
      声高に述べるとなると
      疑似科学度が上昇する
      あっちの世界へ近づく
      それは言えるよね
 
 線引きできなくても症状の距離は存在する。
 
 では検証とは? それは例えば整合性の度合いを見るものであったりする。意見は仮説だ。仮説はデータから導かれたものであり、それはグラフのようなものだ。
 
 そのグラフが正しいかどうか? それを確かめるにはデータを追加すれば良い。グラフが正しければデータはそのグラフを支持するし、正しくなければ支持しない。
 
 かように検証とは追加した証拠との整合性だ。そして検証とは経験的なものである。
 
 ∧∧
(‥ )しかし例えば論理的な人間は
\‐  検証することがまったくの
    へたくそなのである
 
  (‥ )三角形の内角の和を
      経験的に証明しないように
      論理は経験的に論証する
      ものではないからな
      論理にこだわる人間は
      経験をおのずと軽んずる
      だからこそ
      論理人間は意見を変えない
      これが正しいという
      前提から導いた結論を
      かたくなに主張するだけだ
 
 どれだけ持論に反する証拠が上がってきても、論理的な人間はそれを認めない。経験や整合性で物事を判断することは論理的な行為ではないからである。
 
 例えばありがちな意見を取り上げてみよう
 
 海外ではジャーナリズムが自分たちの立ち位置を決めて報道している。これが真の民主主義というものだ。
 
 ∧∧
(‥ )この主張は経験的なものでも
\‐  検証を促進するものでもないね
 
  (‥ )立ち位置を決めて報道する
      それは
      あらかじめ用意した結論に
      なんでも押し込んでしまう
      そういうことだ
      これが真の民主主義だとは
      民主主義は正しい
      あらかじめ用意した結論に
      解釈することは
      民主的である
      ゆえに
      用意した結論に
      解釈することは正しい
      そういう三段論法だな
 
 ここには経験もないし、検証もない。

 ここにあるのは、
 
 自分の正義感のおもむくまま、あらかじめ用意した結論になんでも恣意的に当てはめてしまうことは論理的に正しい
 
 そう申し述べているだけである。さてこれが報道の自由だというのなら、これはあきらかに科学ではないし、そしてジャーナリズムでもないだろう。ただのプロパガンダである。
 
 ∧∧
(‥ )でもこう考える人は
\‐  多いよねえ
 
  (‥ )頭が中途半端に良い奴に
      多いかもな
      論理を自在にあやつれるが
      経験や整合性を見れない
      この手の奴は
      成績は悪くはないが
      トップクラスでもない
      そんな感じだな
      現在の受験システムでは
      こういう人間を
      排除し切れないからなあ
      どうしても
      上位成績者にこの手の
      人間は混ざるよね
 
 中途半端に頭が良い。上にはいけるが、真なる勝利者にはなれない。上に行けた分、あきらめることもできない。分不相応な立ち位置に紛れ込んでしまったわけで、これは不幸なことだ。
 
 実際、この手の中途半端に頭の良い人間はどうにも立ち位置が微妙である。国家官僚になれるわけでもないし、あるいは技術者、科学者やなっても微妙な立ち位置であまり業績もない。時に彼らは知識人になれるようだが、その言葉と意見は自分がトップになれなかった恨みつらみだらけであり、自分をないがしろにした(少なくとも彼らはそう感じている)社会を憎悪しており、社会に復讐するためならなんでもする。

 そして絶えず、自分の正しさを論理的に主張するのだが、当然、他人の意見を経験的に受け入れて持論を変えていくということができないし、必然、自分の身の回りを含めて世界を変えることはできない。今日も彼らはこの世界のどこかに理想の国があると信じ。それはアメリカであったりソ連であったり、あるいはドイツであり民主主義でありマルクス主義であり、せっせと持論に物事を当てはめ、前進しているようで一歩も進む事無く、不平と不満と夢と理想を語り、復讐を....
 
 
 
 

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