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2014年5月15日木曜日

考えてみれば自由って、それ自体がすでに自由ではないよね

 
 ∧∧
(‥ )漫画の「美味しんぼ」
\‐  放射能のせいで
    鼻血が出たとか描いて
    問題になって
    いるみたいだね
 
  (‥ )”この鼻血は放射線を
      浴びたせいである”
      これを言うには
      因果関係を統計的に
      論証せんといかんのだが
 
 統計的な因果関係の論証。これはいわゆるロジカルシンキングをする人間が最も不得意とする動作のひとつでもある。なんでかというに、論理は因果関係を扱えないし、統計学は古典的な論理や演繹から外れたものだからだ。論理を声高に叫んだマルクス主義者たちがいたソビエトで、統計学が弾圧されたことは暗示的である。
 
 ∧∧
( ‥)でっ? その一方で
    ロジカルシンキングな人は
    これこれなはずだから
    これは何々であるに違いない
    間違いない
    そう主張するのだと
 
  ( ‥)...である
    ‐□ ゆえにこうである
      前提というか設定や
      思い込みから
      一律に答えを申し述べる
      ここではこういう思考を
      ロジカルシンキングと
      一括して扱うけども
      これが論理思考の
      特徴であり、
      最大の弱点だよね
 
 見よ 前提は正しいではないか
 
 ああ、しかし、それはお前の思い込みじゃね? だったら結論も必然的に間違ってるよね?
 
 一律にこうだと断言できる
 
 ああ、しかし、それこそが”統計的でない”、ということなのだ。お前が因果関係をうんぬんするのは早すぎるよ。
 
 ロジカルシンキングをする人は、かように問題だらけだ。
 
 そもそも論理とは、いわば文法のようなものだ。文法的に正しい文章で嘘をつけるように、論理的に正しい文章で真っ赤な嘘をつく事が出来る。そして、文法が因果関係について何も語らないように、論理もまた、因果関係について何も語らない。
 
 
 ∧∧
(‥ )でも、こういうことを漫画に
\‐  描く自由はあるわけだよね
 
  (‥ )問題はさ、
      その自由を認めるか
      認めないのか?
      それは
      集合が決定する事柄
      なんだよねえ
 
 不倫をする自由はある。だがそれがおおっぴらに行使されないのはなぜか?
 
 ∧∧
( ‥)不倫の自由を行使すると
    社会的に抹殺されるから
    だよね
 
  ( ‥)知り合いの知り合いの
    ‐□ 女の子、
      一度だけ会ったことがある
 
 その子はお水商売のバイト中に不倫をしたそうだ。相手は銀行の支店長である。奥さんにばれて離婚。そして銀行はこのスキャンダルを許さなかった。普通の会社でも問題になるのだ。銀行という信用を扱う企業において不倫は大問題である。首はぎりぎりまぬがれたが、東京から遠く、田舎の支店へいくことになった。
 
 ∧∧
( ‥)そして女の子も
    支店長と別れた
 
  (‥ )当たり前だよな
      東京の支店長だからこその
      彼の魅力よ
 
 支店長は家庭と職場と彼女を失い、扶養義務だけを背負って東京を去った。そこから先の話は知らない。死んでいないなら、今でもどこかにいるはずである。
 
 このように、自由とは、集合の了解によって規定される。
 
 ∧∧
( ‥)つまり、描く自由はある

  
  (‥ )当然、おいこれ、
      おかしいじゃねえか??
      と突っ込む自由もある
 
 もちろん、反論する自由もある。
 
 だが、こっから先はもう自由ではない
 
 ∧∧
( ‥)社会がそれを決めるのだと
 
  (‥ )こう言うと、
      社会が間違っている、
      社会が自由を抑圧するのだ
      日本社会がうんぬん..
      そう無駄にドラマチックに
      絶望する人もいるけども
 
 実は、社会自体も自由にはなれない。現実という制限から自由にはなれないのだ。社会を動かすには証拠が必要だ。それにはこの場合、因果関係の推論が必要だ、そしてそれには
 
 ∧∧
(‥ )最終的には統計的な
\‐  論証に頼らないといけない
    人々の自由は最後は
    妥当な論証はいずれか?
    そういう
    現実問題に着地する
 
  (‥ )ここで話は最初に戻る
     ロジカルシンキングをする
     人間に統計的な論証は
     無理なのだ
     というか、
     無理だから論証無しで
     話を書いてしまった
     そういうことだろうな
 
 つまり、自由うんぬんが問題なのではなく、論証抜きでやってしまうことが問題なのだ。
 
 そして確信は論証ではない。この二つを混同する人は多いけども、確信と論証は違う。
 
 と、なると、行き着く先はまあ明瞭ではある。
 
 ∧∧
( ‥)その自由は不倫と同様
    行使しづらくなるのだと
 
  ( ‥)編集がいやがるよねえ
    ‐□ 会社は不倫をした支店長と
      同様に、
      金で規定されるわけ
      だからね
 
 確かに、確かに、それが善意であれ、あるいは計算づくの悪意であれ、炎上商法というものは存在する。
 
 ∧∧
(‥ )でも炎上商法もお金に
\‐  規定されるよね
 
  (‥ )収入よりも負荷が
      多くなると炎上商法も
      成立しなくなるからな
      炎上商法ですら
      自由は制限されている
      これは忘れちゃいかん
 
 自由という言葉は抽象的すぎて、おまけに皆が過剰な思い入れで語る。それゆえに、自由それ自体が自由ではない、こうした現実問題から人は目をそらしがちだ。
 
 自由、それ自体が自由ではない、この現実を忘れてはいけない。
 
 自由を無条件に信仰すると、不倫をした銀行の支店長のごとく、真っ逆さまに落下することがありうるのだ。
 
 そして、確信したからこそ私は言論の自由を行使したのだ、そう叫ぶ人は多いが、それは誤りのもとだ。なぜかというに、自由の行使の先で争われるのは確信ではなく、論証だからである。
 
 
 

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