*の続き。
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( ‥)ようするに?
( ‥)ひるがえるとだな、
自分を信用するわけには
いかんのだよ。
自分を信用すると、ああなるのではないか? 自分はトンデモやオレ様理論屋になるのではないのか? という恐怖。
つまるところ、いかなる前提も仮説も、あくまで前提で仮説だ。真理があるとしても、どれが真理でどれが明日壊れる前提なのか区別がつかぬ。
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( ‥)真理なんて、所詮は
自己申告ですからね。
(‥ )せいぜい、これは事実でしょう、
ぐらいにしておくべきなのさ。
∧∧
( ‥)でも何かを前提にしないと
なにかを信用しないと話が
前に進まないのですよ。
( ‥)そして無意識の前提はどうにもならん。
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( ‥)なんで間違ったのだろう、見落としたのだろう
探れば大概はね、無意識、無自覚な
前提があって、それが原因なのですよ
(‥ )あれは必要ではあるがたちが悪くてな
必然、無自覚、無意識ゆえに容易に
判断への侵入を許すのだ。
新聞を疑え、というのは馬鹿っぽい。マスメディアを疑うだけなら誰でも出来るし、何でも疑える。自分を疑え、というのは必要ではあるがどうしても限界がある。それにそもそも疑うことでは答えのチョイスはできぬ。疑うこと自体はあわれなまでに無力だ。
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( ‥)でもマスメディアも御用学者も
信用できぬ、だからこうだ、
そういう答えのチョイスをすでに
した人たちはいっぱいるのですよ
(‥ )つまり、本来ありえない
ことをしているのな。
疑うことは答えをチョイスすることではない。疑うことで答えをチョイスしているとしたら、それは明らかにおかしい。おそらく、未知の判断基準で答えをすでに発見し、それ自身には疑問を抱いておらず、疑うといいながら、自分の答えの妥当性を明示も開示もしていない。
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( ‥)ようするに
(‥ )疑わしいことしてるってことよ