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2015年2月17日火曜日

理屈も感覚も判断の決め手にはなりえない

 
 世の中の物書き、思想家、政治家、コラムニスト、あるいは一般人でも作家でも誰でも、
 
 書いていることは思いつきに後付けで理屈をくっつけただけである。
 
 ∧∧
(‥ )だとすると
\‐  なんかおかしいな
    そう感じる意見でも
    もっともらしく聞こえる
    そういうことになる

 
  (‥ )困ったことに
      その意見自体も
      思いつき
      なんだよな
 
 この意見、何かおかしいな
 
 この思いつきに後付けで理屈をくっつける。するといかにも理路整然とした反論に思える。
 
 ∧∧
( ‥)でもその意見も
    もっともらしいけど
    なんかおかしく感じる
 
  ( ‥)ようするにだ
    ‐□ 何かおかしいよね
      素晴らしい見解だ!
      そういう感覚や
      理路整然としている
      論理が破綻している
      こういう見解は
      判断の決め手には
      ならないってことだね
 
 いや、判断の決め手にはなるのかもしれない。本人はそれに基づいて判断したからだ。
 
 ∧∧
(‥ )でも
\‐  正しい正しくないとは
    関係ない
 
  (‥ )感覚も論理も
      現実については
      何も語ってくれんのだ
 
 考えてみれば当たり前かもしれぬ。これは素晴らしいとか、これはおかしいとか、そういう感覚は人間の脳内で起こっている出来事である。論理もまた同様である。
 
 知覚はまだともかくとして、思いつきを生じるのは純粋に脳の所行であり、論理もまた同様。いずれも人間の外部とは関係ない。それは現実でもなんでもない。
 
 
 

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