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2015年2月12日木曜日

人間を妄想で語る人

 
 論理的に考えることが大事である。そう主張する人に、では昨日のあなたと今日のあなたが同一人物であることを論理的に証明してください。
 
 そう問うたら、彼は怪訝そうな顔をして、そして別の話を始めた。
 
 ∧∧
(‥ )そんな分かり切ったこと
\‐  証明するまでもない
    そう思ったから
    怪訝そうな顔をしたの
    でしょうね
 
  (‥ )でも別の話を
      始めたということは
      自分はうまく説明できない
      そのことに
      気づいたのだろうな
 
 実際、昨日の自分と今日の自分が同一であることを証明せよ、と言われたら困る。証明のしようがない。
 
 ∧∧
( ‥)どうでも良いんだよ
    俺は俺だ
 
  (‥ )実はそれが正しい答えだな
 
 厳密に正しいとは言い切れないだろうが、これがほとんど正しい答えだろう。
 
 昨日の自分と今日の自分が同一であると俺は認識している。
 
 これは論理的な発想ではない。だがそれ良いのだ。そもそも昨日の自分と今日の自分が同一であることを証明することなどできない。演繹でも、多分、帰納法でも無理だろう。だがしかし、そんな方法論なんか人間は必要としないのだ。
 
 結論を勝手に持ってきてしまえば良い。
 
 俺は俺だ。
 
 ∧∧
(‥ )それに自分が自分でないという
\‐  証拠もないよね
 
  (‥ )勝手に持ってきた結論でも
      証拠と整合すればそれで
      良い訳だ
 
 昨日の自分と今日の自分が同一でないという証拠がない限り、俺は俺だ。
 
 この時、証拠との整合というのもまた論理ではない。矛盾点はあるが整合性が高ければ正しい、なんていう証明は数学にはない。
 
 ∧∧
( ‥)つまり人間の基本動作は
    証明とか論理とか
    ロジックとか
    ほとんど使っていない
 
  ( ‥)だから
    ‐□ ロジカルシンキングとは
      ただのポーズだな
      格好付けだし
      単なる無駄な
      ファッションだ
 
 だがこれは奇妙なことを示している。
 
 プラトンもそうであったのだろうが、人間の中で”頭が良い”とされる者たちは、どういうわけか論理に執着したのであった。
 
 ∧∧
( ‥)でも人間の基本動作は
    以上のように論理なんかでは
    まるで説明できない
 
  (‥ )プラトンが
      毎朝、毎朝、起きるたびに
      自分が昨日と同一で
      あるかどうか?
      そんなこと悩んでいたとは
      思えないよなあ
 
 つまりこれは明らかに変なのだ。
 
 論理的には自分の同一性を確保できないのに、論理的であることを格好よいと思って日常を過ごしている人間がいる。
 
 これはいかなることか?
 
 ∧∧
(‥ )多分、
\‐  他の人とちょっと違うだけ
    なのだろうと
    その違いが論理への執着と
    頭の良さを生むだろうと
 
  (‥ )だが実際には論理を
      把握していないわけだよ
      
 だから、彼らが執着しているのは、実は論理ではない。もっと別の何かに執着していると考えるべきだろう。
 
 それは何だろう?
 
 例えばそれは、設定と定義かもしれない。
 
 ∧∧
( ‥)論理は文法でしかない
    文章には名詞が必要だ
    名詞は分類だ
    分類は定義である
    定義は一律である
 
  (‥ )一律な定義で考える
      もっともらしいけどな
      これはごく単純な系しか
      扱えない
 
 陽子や中性子は一律に扱えるが、元素は同位体が存在する以上、一律には扱えない。化学物質になると光学異性体があるし、酵素になると同種であってもアミノ酸の配置が違うし、性質も同じではない。
 
 一律な定義は本当にごく単純な系でしか役立たない。
 
 現実がこうである以上、一律でないものを一律に定義して理解しようとしてもうまくいかない。これは理解の失敗に他ならない。
 
 ∧∧
(‥ )でもテスト勉強は
\‐  出来るかもしれないね
 
  (‥ )そうしてそこそこな
      地位にいけるかもな
 
 だが、そこから先は駄目だ。一律でないもの。例えば人間がそうだ。人間は同一の遺伝子を持つものではない。交配によって無数の変異が離合集散するネットワーク、それが人間だ。人間は均一な機械ではない。人間は一律に定義できない。
 
 一律でない人間を一律に理解しようとする。それは理解の失敗だ。
 
 そこそこな地位にいけても、そこから先はもう無理だ。人間は社会性の動物である。その中で勝ち抜くには人間を理解する必要がある。一律に物事を理解しようとする人間は、理解に失敗するがゆえに、その出世には限界があるだろう。彼らは挫折する。そうして世の中を憎むであろう。
 
 人間はこうあるべきなのに、なぜかそうではないと。なぜだ、お前らおかしいと。
 
 ∧∧
(‥ )それが古代から連綿と
\‐  起こっていることであると
 
  (‥ )プラトンは挫折し
      世界を支配したのは
      ローマ人だった
      マルクスは挫折し
      世界を支配したのは
      頭脳も持たぬ
      資本主義だった

 何が起こったのか、それは明白であろう。論理的な人間はそこそこな地位にまではいけるが、理解の根幹に欠陥があるため、それ以上には進めない。

 彼らは挫折するが、なぜ挫折したのか分からないので世界と人間を憎むのみであろう。そして実際どうもそうであった。
 
 ∧∧
(‥ )それに受験って
\‐  実は論理人間を選抜する
    場所じゃないんだよね
 
  (‥ )つまらない退屈な書類を
      数十万語読んで
      その内容を理解するとか
      それを踏まえて
      妥当な文章を書くとか
      そういうことが
      出来る人間を
      選抜してるんだよな
 
 つまり、受験の目標は、論理だけでなく、一律でない人間とそれが織りなす複雑な有り様をそれなり扱って事務処理できる人間を選抜することにある、そう考えるべきだろう。
 
 ∧∧
( ‥)そうである以上
    一律な定義や暗記とかが
     得意で
     得点をたたき出した人は
     そこそこな地位には
     いけるけど
     挫折するのであると
 
  (‥ )才能が中途半端なんだよ
 
 実際、マスメディアとか知識人とか、彼らの恨み言ってそういうことではなかろうか?
 
 自分の正論で人を切っているばかりで、自分の理解を現実に合わせて対応しようとしたりしない。いつも悪いのは社会と他人である。
 
 そんな人間は才能が中途半端であるがゆえ、使い道が限られているだろう。
 
 そして彼らの論理はいつも奇妙に一律である。そして彼らは人間のあるがままの姿を否定し、自分が考えた理想人間に基づいて現実を語るのだが、それはほとんど妄想なのだ。
 
 
      
 

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