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2015年2月24日火曜日

プリンキピアはほぼ、文章だけだよね

 
 
 ∧∧
( ‥)例えばの話
 
  ( ‥)そうねえ
    ‐□ 意地悪な話をすると...
 
 ニュートンが万有引力によって惑星の動きを証明した書物、プリンキピア、正式名称 [ Philosophiae Naturalis Principia Mathematica ]、すなわち、「自然哲学の数学的諸原理」
 
 ∧∧
(‥ )これ単純な計算以外は
\‐   数式が出てこないの
     だよね
 
  (‥ )そりゃそうなんだよな
      天体の運動を計算するには
      微分積分が必要だけど
      ニュートンと
      ライプニッツが
      それをこれから
      確立する時代なのだからね
 
 
 つまり、数式や公式を使いたくてもそれがないんである。あるいは未整備なのだ。そういうわけでニュートンは万有引力をほぼ文章で説明した。

 例えばの話
 
 時間を相等しい部分に分けるとし、その第一の時間部分の間に物体は固有力によって直線ABを描くとせよ。その物体は第二の時間部分の間には、妨げられることがなければまっすぐc(小文字)に進み、ABに等しい直線Bcを描くであろう。
 
 これにより中心に引かれた動径AS、BS、cSによって相等しい面積ASB、BScがつくられるであろう。ところが物体がBに達した時、向心力が一撃より強く作用し、物体が直線Bcからそれ、直線BC上を進むように働くとせよ。BSに平行にcCを引き...
 
 「世界の名著 ニュートン」中央公論社 pp97
 
 ∧∧
(‥ )これはケプラーの第二法則の
\‐  証明で
    その冒頭部分ですと
 
  (‥ )ニュートンと言えば
      近代科学の祖とされる
      人なんだがな
      数式や方程式が
      未熟である以上
      彼の論証は
      幾何学で行なわれていて
      実態は
      古代ヘレニズム的な
      ギリシャ数学なんだよね
 
 *ちなみに第二法則の証明が一番簡単である。第三法則の証明はかなり難しい。だが第一法則の証明となると、あれは別格だ。アポロニウスの円錐曲線論もそうだけど、この人たちは頭の出来が尋常じゃない。いかれてる。
 
 まあ、このように科学も数式も論証も、本来、文章だ。
 
 そして文章の形式のひとつとして、数式や方程式が生まれてくることになる。
 
 つまりこれはこの話の続きだ=>hilihiliのhilihili: 方程式とは文章である
 
 ∧∧
( ‥)だから文系は数式に逃げずに
    文章で表現する人々なのだ
    そう言われると
 
  (‥ )そう言われると
      ううん? そうなの?
      そう思っちゃうわけさ
 
 万有引力とニュートンからして文章文字だらけである。
 
 これを考慮すると、文系は文章で考えるのだ、という見解はいかにも怪しい。
 
 ∧∧
(‥ )逆に言うと理系って
\‐  数式だらけって
    イメージがあるんですかね?
 
  (‥ )俺が今読んでる
      遺伝の論文に数式は
      出てこないけどな
 
 とはいえ、当たり前の話だが論理構造はしっかりあるのである。
 
 AがAでなくなると現象Yが起こらない
 BがBでなくなっても現象Yが起こらない
 AがAでなくなった時、そこにBを投入しても現象Yが起こらない

 だが

 BがBでなくなった時、そこにAを投入すると現象Yが起こる
 
 *厳密に言うと転写産物を投入する
 
 ∧∧
(‥ )おそらく現象Yには
\‐  遺伝子AとBが関わっている
    そしてAの機能喪失をBは
    救うことができないが
    Bの機能喪失をAは
    救うことができる
 
  (‥ )ここから考えると
      遺伝子Bは遺伝子Aの
      スイッチを押す役割を
      司っているらしい
      そして現象Yの実行部隊は
      遺伝子Aだ
      そういう結論が出てくる
 
 論理自体に何かを語る力は無い。文法は文章の真実を保証しない。
 
 だがしかし、論理が正しくないと結論は根拠を失う。あるいはこういえばより正確であろう。文法と論理が正しくないと結論は根拠から切断されると。
 
 これもまた事実。
 
 ∧∧
( ‥)数式も方程式も文章である
    そして数式が無い論文もまた
    そこには論理構造があり
    それは可能な限り
    正しさを追求されている
 
  ( ‥)つまり重要なのはな
    ‐□ 数式か文章かではない
      どっちの表現形式を
      選ぶにしても
      その構造が
      きちんとしているかどうか
      そこが要点よな
 
 文系は数式に逃げずに文章を選んだのだ。この主張がどうも怪し気に聞こえるとしたら、多分、原因はここにある。
 
 文章も数式も本来同じものだ。実際、ニュートンのプリンキピアはほぼ文書だけで成立しているのに、それでもなお古典物理学の基礎になっている。
 
 かように、文章も言葉も数式も方程式も等価である。だとしたら、なぜお前は文章の優位性を無条件に誇れるのか? その論証はどうであるか? それが問題になろう。
 
 そしてその問いに主張は答えていないのだ。
 
 

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