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2015年7月25日土曜日

全方位袋小路

  
 自然物は塩や鉱物や、あるいは雪の結晶でさえそうであるように、自分の複製を作ることができる。
 
 より複製を残せる特徴を持つものは数を増大させる。それは進化に他ならない。無生物から始まった進化は必ず生物を生む。
 
 つまり、生物は必然的にうまれる
 
 ただし、それには条件がある。水が気化して無秩序になってしまうような高温では駄目だ。反対に水どころか二酸化炭素まで凍結して秩序だってしまうような低温でもだめだ。
 
 二酸化炭素と水から我らの体は作られている。
 
 高温でもなく、冷温でもない。どちらでもない狭間の世界でないと生物は出現しない。
 
 生物はこの条件がゆえに、その存在は不安定である。
 
 生物は不安定でないと生物たりえない。狭間の不安定性こそが生には必要だ。だから生は不安定で不自然なものとなる。そして必ず安定解である死へと崩壊する。我らは二酸化炭素と水から生まれ、そしてそこへ還る。
 
 安定解への崩壊を阻止して不安定性である生を維持する。そのためには膨大なエネルギーが必要だ。
 
 つまり、生きるには命を削らねばならぬ。
 
 わずかな手抜きが死へと直結する世界。この世界において努力が報われることなどありえない。なぜ努力という苦痛を放棄すると悪いことが起こるの? その問いに対する答えは単純であろう。それは生が不自然である必然の結果である。
 
 生きるとは苦痛だ。それは不自然な生という状態を無理矢理維持している結果だ。
 
 生きるとは報われないことだと知るべし。

 生きるとは、死なないことを無理矢理継続するだけの行為。

 手にする全てを生に投入しないと死んでしまう。このため生きるとは苦痛以外の何ものでもなくなった。
 
 しかし生物は死を恐怖するように進化的にプログラムされた。死を受け入れたものはすべて消滅し、残るのは死を恐怖し回避する性質を持つものだ。その子孫である我々が死を受け入れることはない。
 
 生きるとはつまり結果論である。なぜ生きるのか? このありがちな問いは単なる誤謬だ。結果から原因を遡及するからおかしなことになる。問い自体が無意味だ。
 
 生きることに意味はなし。これが大前提となる。
 
 そしてしかし、唯一の解放である死を我々は絶対に受け入れることができない。
 
 命が産まれるのは必然
 
 命が不安定であり、生が苦闘なのも当然
 
 死を恐怖し、苦痛だけでしかない生を生きるのは進化的な運命

 生きるは苦痛。死ぬのは恐怖。努力は無意味。手抜きは死。ありとあらゆる方角が袋小路。
 
 ∧∧
(‥ )この宇宙で生は望まれていない
\‐
 
   (‥ )そういったら
       それは面白い考えだと
       言われた事があるな
       当たり前な事実を
       言ったまでなんだが
       世の中の人はそうは
       考えないのか?
 
 
 人の認識は奇怪。命無き二酸化炭素と水こそが我ら本来の姿だと知るべし。そして皆、いずれあそこへ還る。安定解への必然の崩壊を阻止せんと、無意味な苦闘を死ぬまで続ける不安定な存在、それが生。
 
 
 
 

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