先日、学校教育に関してその相手が話されるには、教育や勉強には子供の興味を引き出す必要があるのだそうだ。
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( ‥)そりゃあそうでしょ。
(‥ )まあそうだろうねえ。
例えば、と、彼の人が曰く、真剣十代しゃべり場(だかなんだかという番組)では、例えば子供が「こんな勉強が何の役に立つのか??」と熱心に、、、
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( ‥)で、子供に熱心にそういうことを主張されたり
尋ねられたらあなたはなんて答えますかね?
(‥ )別にあんたに期待しているわけじゃないのだから
”オレ様”にとってこれが何の役に立つのか?みたいな
質問をするのは無意味だよね、と言う。
知的伝統の系譜ってのは何のことはない、いつか目の前にいる若い連中の中から誰かすぐれた後継者になってくれる者が出るだろうと期待して教えているのであって、”誰か特定の個人”に対してメッセージを投げかけているわけではない。
(‥ )個人指導ってのは一般的にはあまりにも
非現実的だから、とりあえず平均的に
効果的に成果が出るように
ざっくりとしたくくりで教えればいいわけさ。
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( ‥)はあ、つまり個人は実在しないものとして
扱うわけですか?
そうなんじゃないすかね。ざっくりとしたくくりで何かを扱う。そういうことをする時、実のところ、その構成物、例えばの話、個人の存在は取りあえず脇に置いている。ぶっちゃけた話、個人が実在すると考える必要はない。
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( ‥)そんなもん?
(‥ )そんなもんなんよ。本を作るのだってそうだぜや。
個人のお客に本を売るか? 数が売れないよね?
特定の個人を念頭に置いてその人のために本を
書くかね? 普通は書かないだろ?
本を作る時、作る側にとっては個人も顧客も実在するなんてさらさら思っちゃいないのですよ。あるいはこう、個人個人の顔を思い浮かべてあの人が買ってくれればそれでいいや、なんていう販売は非現実的。当たり前。スーパーだってそうに違いない。あの人は辛いのが好みだから、と言ってお惣菜を辛く味付けするやつはいないだろう。
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( ‥)まあねえ、そうですねえ。
(‥ )つまるところ教育だってそうだろ?
個人個人が実在するということは分かっていても
個人個人に個人指導なんて教え方は非現実的だべさ。
だからいくら個人が「これが何の役に立つのか?」と問うてもそれは意味がない。別にその個人に期待しているわけではないし、そもそもその個人が存在すると仮定して教えているわけでもなんでもないんだから。
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( ‥)あんたに期待しているわけではないのだと。
(‥ )いつか誰かが後継者になって勝ち残り、
社会に、引いては自分にも富みを還元して
くれることを願って教えるのでは
ないのかね?
数学、化学、物理、生物学、農学、地学、なんでもあるけども、この世界で現状を維持したければ走り続けなければいけないわけで、そのためには後継者が必要なのさ。でも誰が後継者になるか分からないのだから、ざっくりと教えるしかないわけよ。
∧∧
( ‥)お前に期待しているわけではないのだから
何を言っているのだと、、、、。
( ‥)脱落する自由も
選択する自由も誰にでもある。
つまるところあれだ、究極的には自分を相手に売りつける時、その適正価格を引き上げるにはどうすればいいのかって話である。勉強どころか何のスキルも身につける気がないとしたら低賃金労働者になるしかなくなるわいな。
(‥ )まあ、富みの不公平は社会問題だって
言い立てて他人にたかるって手もあるけどね。
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( ‥)はあ、まあそれはそうですけどもね。
この勉強が何の役に立つのか? それは質問が間違っている。
あるいはこう
その文章は主語がおかしい。