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2016年7月6日水曜日

正しさとは必ず間違いの道

 
 7月6日、3:20 気温は21度、湿度は92%
 
 ∧∧
(‥ )昨日…というか
\−  4日昼間の猛暑と
    打って変わって
    涼しい夜ですなあ
 
  (‥ )4日の夕立で温度が下がり
      アスファルトも冷え
      翌5日はずっと曇り
      夜になってここまで
      下がったというわけだ
 
 動かないでいると、シャツ1枚では寒いほどだが、歩いている分にはむしろちょうど良い温度である。
 
 もっとも夜空は曇天、おまけに湿度が馬鹿みたいに高いので 壮快! というわけにはいかなかったが。
 
 さて
 
 ∧∧
(‥ )片山さつき議員が
\−  立川駅の演説中に
    左翼集団に襲われたって
    ニュースが流れてるね
 
  (‥ )大手のメディアは
      流してないな
      元ネタは夕刊フジっぽいね
      事が起きたのも2日
      しばらく前だね
      内容は
      アベ死ねとか書いた
      プラカードをかかげて
      帰れコールした集団がいて
      議員が手を差し伸べたら
      ひっぱたいたと
 
 ∧∧
(‥ )確かにtwitterを見ると
\−  7月2日、演説妨害をされて
    うち一人は私の手を叩きました
    とご本人が投稿してますなあ
 
  (‥ )他、片山議員が立川駅で
      ブーイングされている
      というツイートも
      検索にひっかかってくるな
 
 ∧∧
(‥ )内容自体は絶対的には
\−  大したことではない…
    議員ご本人も
    事実を述べただけで
    さらっと流してる
    むしろそんな人もいたけど
    私が淡々と話したから
    立ち止まる人が増えたよ!
    とある意味勝利宣言
    でも…
    理論上は大問題ですかね
 
  (‥ )大問題だろうねえ
      演説を妨害する
      演者の手を叩く
      これは
      理論上は民主主義の
      暴力による否定だからな
 
 理論上? 実践上のことを君はなぜ考えないのか? 日本が戦争できる国になるかならないかの非常事態だ、これぐらいいいじゃないか! と言う者もいよう。

 しかし、それを言ったら、ではどこからが悪いんだい? さらにいえば、どこまで暴力していいの? ということになる。こう言えば明白なように、これは極めて危険な領域だ。

 境界線が明瞭でない問題で、しかもそれが一歩こじれると大問題になりうる場合、境界線のずっと手前でとどまることがどうしても必要となる。
 
 ∧∧
( ‥)でっ? それをしない
    それができない
    集団でありましたと
 
  ( ‥)物事をよく考えていないし
    −/ よく訓練されても
       いないんだな…
       組織的というよりは
       自発的なのか?
 
 それとも単に組織の程度が低いのか。これもありえそうな話だ。

 あるいは、正しければ何やっても良いはずだ、と思い込んでいる連中なのか? まあこれは多分そうだろう。
 
 ∧∧
(‥ )正しいことに執着するとは
\−  すでに結論したことを疑わず
    無批判に行使するという
    ことである
 
  (‥ )今回の選挙は
      この手の人にとっては
      戦争を引き起こそうとする
      悪の帝王アベ・シンゾーを
      打ち倒す聖なる戦い
      なんだよな
 
 つまり、彼らにとって、このたびの選挙は聖戦なのだ。
 
 だがどう考えても残念ながら、これ負け戦ですよね? という状況。
 
 ∧∧
( ‥)だとすると選挙後
    この手の人にとって
    有権者達とは
    アベ・シンゾーを
    支持した悪の手先ってことに
    なるのでしょうなあ
 
  ( ‥)自民が勝ったら
    −/ この手の連中は
       次は魔王を支持した
       国民を攻撃しだすの
       だろうな
 
 
 ∧∧
( ‥)ああ、テロに走るのか
 
  (‥ )正しさを疑わないって
      そういうことだし
 
 
 正しさを信じるとは、我が社の業績は上がっているはずだから、売り上げ悪化の報告は全部嘘だ、という世界観だ。これは予めグラフを描いて、データをそれに合わせるという動作である。つまり結論ありきで他人の意見や報告を聞かない世界観。
 
 本来、通常なら、データを集めて、それを説明するグラフをデータに基づいて描くのが普通だ。
 
 正義を重んじる人間はこれができないし、この動作に戸惑う。それは信念の放棄であり、正しさに対する冒涜ではないのか? と
 
 しかしこの場合、新しいデータがそれまでのグラフと合わないのなら、あれ? グラフが間違っているのかな? となるし…

 ∧∧
(‥ )グラフが下がれば
\−  あれれ? 業績が悪化してる
    ということに気づく
 
  (‥ )あるいはこうしてみたら
      どうかな? とやってみて
      グラフが上向けば
      どうもこれで良いらしいと
      分かるわけだな
 
 つまり、データからグラフを描くからこそ、経験を生かすことができ、解答を探索できる。そしてこれが通常の人間。
 
 だが、正しいことをすでに知っている人間はこれができない。ただただすでにある正義を正解だと信じて繰り返すだけである。当然、他人の話を聞かない。どこまでいっても自分の賛成意見だけだ。
 
 つまるところ正しいことをするとは、経験を破壊することであるし、そして正しさという結論に飛びついた以上、行動を是正することはできないのである。
 
 しかも弱ったことに、本人が正解だと信じているだけで、正解が本当に正解なのかは分からない。なぜって正解は自分自身の正しさをまったく保証しないからだ。そして悲しいかな、正解とはしばしば、というかほとんどの場合、間違いなのである。
 
 つまり正しき道をゆくとは、不正解の道を他人の忠告を聞かずに走り抜けること。

 なればその末路。悲惨なことになるは必定。
 
 
 
  

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