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2016年7月21日木曜日

ああ、これは今の我々がしていることだ

 
 日付はすでに変わって2016年7月21日
 
 ∧∧
(‥ )そしてアップした画像は
\−  昨日の夕暮れと雲
 
  (‥ )夕暮れに輝く高い雲の
      手前を低く暗い雲が
      よぎっていくのだ
 















 
 
 さてもさても。この夕暮れの中で昨日は本に眼を通していた。
 
 ∧∧
(‥ )「軍人皇帝時代の研究」
\−   井上文則 岩波書店
 
  (‥ )まあ昨日した
      ガリエヌス帝がなぜ
      批判されたかの続きだな

 つまりこれ=>hilihiliのhilihili: 戦えガリエヌス
 
 3世紀のローマ帝国は政権が次々に交代し、特にウァレリアヌス帝がペルシャの捕虜になった時は各地で有力者が皇帝を宣言、あるいは宣言こそしないものの群雄割拠といっても良いような状況とあいなった。
 
 そんな時代に正当な皇帝として侵入する蛮族や反乱を起こす部下たちと戦い続けたガリエヌス帝。
 
 ∧∧
(‥ )でも4世紀の史書
\−  ヒストリア・アウグスタでは
    ボロクソな扱い
 
  (‥ )なんで評判が悪いのか?
      ガリエヌス帝は
      軍事勤務から元老院を
      閉め出したから
      嫌われていた
      という見解があるのは
      昨日取り上げたけども
 
 だが「軍人皇帝時代の研究」を読んだところ、どうもそう考えるのは難しいらしい。
 
 貴族である世襲議員たちによる元老院。元老院は共和制の時代には政治における最高機関で、元老院の議員たちは軍隊勤務から財政、裁判を扱う役職などについてキャリアを積み、そして属州の総督やあるいは最高の権限を持つコンスルになる。
 
 ところが、1世紀になると皇帝が元老院の上に立つようになり、さらに3世紀のガリエヌス帝は、ガリエヌス勅令を発して元老院を軍隊に関わる役職から閉め出し、元老院議員よりも次席にあたる騎士階級の者達を登用するようになった。
 
 伝統を重んじる元老院からすればこの処置は堪え難いもので…
 
 ∧∧
(‥ )という話のはずが
\−  そもそもガリエヌス勅令は
    存在しなかったのではないか
    というのがこの本の見解で
 
  (‥ )実は碑文の調査から
      騎士階級の人間は当時
      確かに軍隊司令官として
      職についているのだけど
      元老院の人間も変わらず
      軍団の指揮権を持つ
      属州総督になっている
      ことが分かったと
 
 というか、それが分かったのは実に100年前、1915年だそうである。以後、ガリエヌス勅令とはなんだったのか? という議論が続いていたのだそうな。
 
 ∧∧
(‥ )そしてこの本の著者は
\−  ガリエヌス勅令は
    これに言及した4世紀の史家
    アウレリウス・ウィクトルの
    創作と見ると
 
  (‥ )ガリエヌス勅令を
      記述したのが
      ウィクトルだけである
      彼は文人肌で
      軍人を無教養とみなし
      嫌っている
      元老院は
      軍隊の役職を奪われて
      軍隊を
      支配できなくなった
      それが現在の状況を
      招いている…
      という記述の文脈で
      勅令を述べている
      確かに創作っぽいな
 
 ただし、軍隊の役職で元老院以外の人々が幅を利かせるようになったのは、ガリエヌス帝の時代あたりであったことは事実らしい。とはいえ記録からすると、それが起きたのはガリエヌス帝そのものというよりは、
 
 ∧∧
( ‥)ガリエヌス帝の父親で
    共同統治した
    ウァレリアヌス帝の時代で
    あったと
 
  ( ‥)ガリエヌス帝に反乱した
    −/ 軍人達がそもそも
       騎士階級らしかった
       みたいだからね
 
 だとすれば、ガリエヌス帝そのものよりも少し前に状況は進行していたことになる。そしてそれは元老院を一切排除する、というものではなく、軍隊の専門家がこれまでより幅を利かせるようになっていた、という感じらしい。

 まあこれは当然なんだろう。西部国境にはゲルマン人がやってくる、東部国境にはペルシャに興った強力なササン朝が攻めてくる。東西防衛戦の状況は深刻なんであるから。
 
 ∧∧
(‥ )じゃあなんでガリエヌス帝は
\−  ボロクソに言われちゃったの
    だろうね?
 
  (‥ )指摘されてるけど
      ボロクソに書いてる
      ヒストリア・アウグスタ
      でもガリエヌス勅令は
      出てこないんだよな
 
 これもまた、ガリエヌス勅令がなかった、という証拠でもある。そして出てくるのは、ガリエヌス帝はペルシャに捕らえられた父親の仇を取らなかった、という批判だ。
 
 ∧∧
(‥ )ゲルマン人の族長の娘を
\−  妃に迎えたことも
    批判されてるね
 
  (‥ )でもこれ同盟関係
      らしいんだよな
 
 そもそもガリエヌス帝の担当は帝国の西部、ゲルマン人などに対抗する国境で、東方はそれこそ捕虜になってしまった父親が担当していた部署であった。
 
 ∧∧
( ‥)お父さんが捕虜になった途端に
    帝国中で有力者が
    勝手なことを始めちゃったし
    ガリエヌス帝ご本人は
    反乱者と戦ったり
    もともとの担当部署である
    帝国西部を防衛していた
    わけだよね?
 
  (‥ )父と自分の例に習って
      ガリエヌス帝も
      自分の子供に防衛を
      担当させて
      自分は転戦するんだよな
      西部国境には
      ドナウとライン
      二つの国境と戦線が
      存在しているし
 
 反乱ばっかり起こる時代である、取りあえず身内で防衛箇所をそれぞれ担当するのは当然の発想だろうし、後のディオクレティアヌス帝の四帝統治も基本は同じ。つまり必然の理由があるってことだ。
 
 ただ、ガリエヌス帝の場合、子供の方が自分よりも先に死んじゃうんだけど。
 
 ∧∧
(‥ )そこまでして防衛戦争を
\−  戦い抜いたのに
   お父さんの仇を取りにいかない
   とか
   夷狄の女を嫁にしたとか
   文句言われ続けて
   批判されるわけですか
 
  (‥ )そうだとしたら
      ひでー話だよな
      おまけに後の時代に
      今の軍人皇帝時代は
      ガリエヌスのせいだとか
      書き立てられちゃう
      わけだよ
 
 
 ああしかし多分、今の我々自身がこれとまったく同じことをやっている。
 



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