浜岡原発を止める。それには賛否がある。たとえ止めることが妥当であるとしても(事実、その判断が妥当だとする”妥当な根拠”は幾らも提出できる)、しかし、それでもその判断を下した時、お前は妥当に考えたのか? という問いと責任、それは必ず残る。
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( ‥)結果が妥当であるか、ではなく
結果を導いた過程が妥当であるか
そこであると。
(‥ )結果が妥当であってもな、
判断の過程そのものの妥当性が
問われる場合があるってことだな。
判断の過程が妥当でないと、実はそこに隙が産まれる。それは当然、穴になり、最悪の場合、結果オーライであるはずなのに、そこから評価が転覆することだってある(サイコロで明日の天気を当てても、それは批判されるよ、という話)。
とはいえ、そんな話、それ自体はどうでもいい。
人によっては、ではなぜこのような時にあなた方は声を上げない? なぜ妥当性を問いたださない? なぜ必要なら必要だと主張しない? マスメディアやジャーナリストはなぜ沈黙するのか?? と問いかける。
∧∧
( ‥)これらの問いになんと?
(‥ )それは理念の話だろ?
理念は理論じゃないよな。
「なぜかくのごとく出来ない??」
この問いは理念の話であって、メディアの動態を説明する理論ではない。仮に理論であっても同じ、それは”メディアの動態を説明することに失敗”している。なんのこっちゃない、失敗したガラクタ理論を振りかざしているだけのたわ言だ。
∧∧
( ‥)まあ、”なぜ?”という問い、
それ自身が、「かくあるべきなのに
そうではない」、、、という嘆き
ですからね。
( ‥)ようするに、自分自ら
敗北と失敗を認めている
わけだ。
かくあるべきなのに、なぜそうではない?
それはあなたの理論に説明能力がなかったということです。あなたの理論は失敗しました。あなたはあなた自身の問いにこう答えておられる。私は現実の説明に失敗いたしました、と。
∧∧
( ‥)でもまあ、このことも
どうでもいいことなの
でしょう?
(‥ )メディアは今、消費者が求めている
ものを売っている。
「今、原発の真っ最中ですから、危険性を指摘する記事を書こうというスタンスです。」
まあ、そういうこっちゃ。
∧∧
( ‥)消費者が求めているもの、
ですか。
(‥ )あるいはこう?
消費者が求めているだろう、とこちらが推論した記事を売っている。
∧∧
( ‥)単に売れるものを
売っているだけでしょう?
( ‥)消費者は想定されたもので
仮想的なものだし、
ある商品が売れた、という
数値だけがよりリアルだね。
今、観測する限りでは危険ブームなんでね、それ以外のもの、売る気がないんよね、たぶん。
∧∧
( ‥)メディアの理念はどうした??
と問われるでしょう。
(‥ )そこで最初の話に戻るわけだ。
*ここで冒頭↑に戻ると無限に楽しめます。
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( ‥)でっ、あなたは待つのだと。
( ‥)夢が現実に屈服するのを
待っている、それだけさ。
夢が頑強な現実の前に降伏し、屈服するさまはすばらしい、それは価値あることだ。
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( ‥)まあ、最低限
(‥ )これではうまくいかない、
そういうことは分かるからな。
駄目なことが分かれば、それは前進だ。挫折にはよくしたもので、ちゃんと対価が支払われている。
だからこそ、夢は挫折した時にこそ価値が出る。挫折しない夢はただの悪夢だ。