9引く6割る3は幾つか?
つまりこれはhilihiliのhilihili: 9引く6割る3の続き
∧∧
( ‥)かけ算、割り算は
先にするんだよとか
そういうこと以前に
状況次第ですかね
(‥ )例えばの話
食料探しにいって9つの芋を見つけた。キャンプに帰ると、他のみんなは手ぶらか、小さな芋しかなかったので6つをお裾分けした。こうしておくと立場が逆になった時、自分もお裾分けしてもらえるからだ。残りの3つの芋を3人で分けて食べた。一人、1個の芋を食べた。
∧∧
(‥ )この場合は
\‐ (9−6)÷3だね
(‥ )採取できた芋の数
お裾分けする芋の数
そのあまりを
自分たちの人数で割る
すると1人あたりに
食べられる芋の数が
出てくる
そういう公式だな
あるいはこう
君たちには芋を6つお裾分けするよ。芋はどこそこに置いてあるから、各自持っていってね。言われた場所へいくと芋が9つあった。さて、自分の取り分は幾つであろう? 僕らにお裾分けの芋は6つ、僕らは3人だから、僕の取り分は2つだ。そこで9つの芋から2つを取って帰った。お裾分けの場所には、私が来ました、私は2つもって帰りました、私の後の芋は7つになりました、そう書き残しておいた。
∧∧
(‥ )この場合は
\‐ 9−(6÷3)だね
(‥ )母集団の数
お裾分けの数
お裾分けにあずかる人数
そこから出てくる
公式だね
本当は括弧でくくったり、あるいは分数の形式で表示するのが良いのだろう。実際、自然現象を示す方程式はそういう形式になっていないだろうか。
∧∧
(‥ )でも9−6÷3とだけあると
\‐ 以上の二つが
うまく識別できなくなる
(‥ )文章って基本的に
表記が1次元だろ?
多分、
分数は1次元では
表記しにくいから
それで混乱が
生じているのだな
実際、分数表記にすれば問題はあっさり解決なんだが、1次元の表記では分数でもうまくいかないだろう。例えば、÷の代わりに分数を示す/を書いても、それは9−6を分子にした分数なのか、6を分子にした分数なのか結局区別できない。
∧∧
( ‥)括弧でくくるのが
一番良いでしょう
( ‥)ところがさ
‐□ かけ算、割り算が先だの
そういう約束事を
無駄に優先させるのだよな
かけ算、割り算を先に行なう。一見すると1次元における表記の厳密性を保証するための試みに見えるが、本当にそうだろうか? 単に括弧でくくれば良いだけではないのか?
それに考えてみればかけ算を先にする、という約束事は極めて胡散臭いのである。
例えばの話
(a+b)×(a+b)=aa+2ab+bb
この計算は、かけ算を先にするのだ、という約束事で考えれば破綻してしまう。
∧∧
( ‥)だから括弧で
くくっているではないか
そう言う人もいるかもだけど
(‥ )だったら最初から
括弧でくくれば良いだけの
話よ
以上を考えると疑惑が持ち上がる。昨今言われる例の話、かけ算にも順番があるのだ、という教え方もそうだ。
もちろん、実際にはかけ算に順番は無い。順番を考えなければいけないのは無限の計算とかの時だろうし、通常はそんな必要はない。
∧∧
(‥ )数学は抽象化されてるからね
\‐
(‥ )ところがせっかく
抽象化して
普遍性と利便性を
もたせたのに
かけ算に順序があるだの
たわ言をほざきだす
わけだ
さらに括弧ですむところで、二次方程式では破綻するような約束事をわざわざ持ってくる。
これらはどうにも胡散臭い。
やはり思うに、計算の大事なところを忘れて、ゲームのルールを教えるような教え方をしていないか? それも、これがルールだからしょうがないのだ、そういう根拠も由来もまるで把握していない俺様解釈になっていないか?
いや、そればかりか俺様解釈を越えて、新ルールまで設定している。
これは、実のところ、おっさんの限界ではないか?
いるではないか、自分は頑張って成功した、だから自分の人生には価値がある。成功した自分の人生を導いた俺の思考にも価値がある。その俺が世界の真理を見抜いた。この真理には価値がある。なぜなら俺の人生に価値があるからだ。だからこの真理を見よ。
このようなことを無邪気に信じるおっさんたちが山のようにいる。
世間はこういう勘違いしたおっさんたちの人生訓と、おっさんが勝手に考えだした法則や理論だらけではないか。
”かけ算が先だルール”を使い、役にも立たない引っかけ問題をつくるだの、かけ算にも順序があるだの、これらもそういう薄っぺらい人生から出てきた勘違いではなかったか?
これは疑惑である。