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2015年3月7日土曜日

考えてみれば神権政治家と建築学科学生は同じだった

 
 オスマントルコ帝国はWW1の敗北の後、トルコ共和国になった。トルコは西欧のような国民国家を目指した。
 
 ∧∧
(‥ )でもイスラームと
\‐  オスマン家に
    統治されていたトルコは
    多民族多宗教の国であった
 
  (‥ )ここはトルコ人の国です
      トルコの国民国家です
      そういわれると
      クルド人とか
      アルメニア人が
      困るのだな
 
 これまで同じイスラーム教徒で共存していたのに、ある日から突然、異民族扱いになり、言語や存在を否定される。当然、内部で独立運動が起こるし、しかもそれぞれの集団が入り交じっているから、お互いに排他的な武装闘争が始まる。
 
 ∧∧
( ‥)西欧で発明された国民国家は
    イスラーム世界では
    ぜんぜんうまくいかない
 
  (‥ )西欧でさえ
      バスク独立運動とか
      ユーゴ内戦
      弾圧と虐殺が
      あるわけだから
      当たり前だよね
 
 ペルシャ帝国の後継者であるイランと、それを統治したパーレビ王朝は西欧化を押し進めた。でも話で聞くにこれはろくなものではなかったという。鉄道を輸入してもそれを下ろす港湾施設がない。上っ面だけなぞって基礎がなっていないらしい。
 
 さらにその西欧化とは、チャドルを身につけている女性がいると、それを強制的に剥ぎ取るようなものだったとか。
 
 ∧∧
(‥ )それまでチャドルを着て
\‐  身を隠していた女性を
    チャドルから開放するのだ!
    と言うと聞こえは良いけど
 
  (‥ )それってな
      西欧では下着で歩くから
      その文化を見習って
      道行く女性の
      上着やスカートを
      剥ぎ取ってしまえ
      そう言ってるのと
      同じなんだよね
 
 それでもいいよ、そう言う人もいるであろう。日本でも一時、キャミソールで町を闊歩するのが流行った時期があるのだ。見せブラ、見せパンという言葉もあろう。下着主義でも良いと言う人もあろう。
 
 それと同様、イランの女性でもチャドル無しを良しとする人もいるであろう。
 
 でも全員がそうじゃないよな。
 
 国民の反感は高まり、ついに1979年、パーレビ王朝は倒れ、法学者であるホメイニ師が政権を奪取した。 
 
 ∧∧
( ‥)そしたら今度は
    全員にチャドルを強制
 
  (‥ )極端にぶれるのだ
      どうしたもんかね
 
 
 アフガニスタンでも王朝の失政で政変が起こるが、しかしこちらはマルクス主義者が政権を奪取した。改革すべきの考えは皆同じでも、色々な選択肢があるものだ。
 
 だが、当然のようにマルクス主義の推進は失敗。内乱が勃発し、ソビエト寄りの政権を助けるため、1979年、ソビエト・ロシアはアフガニスタンに軍隊を派遣する。アフガニスタン紛争の始まりだ。
 
 ∧∧
(‥ )この時、諸勢力から
\‐  抜き出た軍事指導者が
    マスード将軍
 
  (‥ )でもロシアが引いた後
      1992年に成立した
      政府では
      国防大臣止まりなんだよね
 
 内乱参加時、建築学科の学生であった将軍は当時、やっと40代。アフガニスタンは多民族であるし、タジク人である将軍が独裁をするわけにはいかない。それに彼の地は長老が指導者になるのが普通の文化らしい。軍事的才能はともかく、まだ若すぎた、そういうことかもしれぬ。
 
 この後、外国勢力の支援を受けたタリバーンによって諸勢力は後退せざるをえなかった。それでも北部で地歩を固めたマスード将軍はタリバーンと対峙しつづけた。
 
 将軍はゲリラ戦の実力者であり敬虔なムスリムであり、知的で、女性の教育にも力を入れたという。もともと彼は学生だったからかもしれない。
 
 しかし、2001年、タリバーンはマスード将軍の暗殺に成功した。そしてタリバーンとアルカイダは、アメリカに旅客機を用いた自爆攻撃を実行する。確かに彼らのやりようは結果論からすれば正しいのだろう。アメリカはアフガニスタンからゲリラ戦でたたき出せる。これは安易すぎる見通しだけども、実際、結果的にはたたきだした。
 
 しかし将軍が生きていればどうであったか? 
 
 陸戦では最後まで将軍に勝てなかったのだ。外国からの援助を切られたらタリバーンの負けは確実ではなかったか? つまりタリバーンからすればまず倒すべきはアメリカではない。倒すべきは将軍ではなかったか?
 
 ∧∧
( ‥)実際、
    タリバーンは
    マスード将軍を
    暗殺以外では倒せなかった
 
  (‥ )あれな
      タリバーンからすれば
      ニューヨークで数千人を
      殺害したことよりも
      将軍一人の暗殺に
      成功したことの方が
      戦果として大きかった
      そういうことかもな
 
 さてもさても、ここ100年におけるイスラームの歴史や試行錯誤や、試み、失敗、方法、まこと多岐に渡る。あらゆることが試された、そう言っても良いのだろう。
 
 そしてふと考えるとマスード将軍はタジク人であった。タージーク。つまりペルシャ人である。
 
 ∧∧
(‥ )要するに神権政治を
\‐  行なうホメイニさんと
    マスードさんは
    同じ言語をしゃべる
    同じ民族だってことだよね
 
  (‥ )人によってえらい
      違いだと思わないかね?
 
 考慮するに、預言者も、そして預言者の教えを受けて政治を行った人々も、彼らは当初、全員、異教徒であった。
 
 ∧∧
( ‥)そりゃそうでしょう
 
  (‥ )これは暗示的だと
      思わないか?
 
 ムスリムでない俗な生活と理解の上に啓示がやってきた。それって、俗権がまず最初にあるべきだ、それに補正を加えるのが教えや法である。そういうことじゃないの? 
 
 ∧∧
(‥ )学生上がりのマスード将軍が
\‐  ただの軍事指導者で
    終わらなかったのは
    示唆的かもですね
 
  (‥ )様々な可能性が
      試されたのだ
      同じ言語でも
      違う可能性が試された
      そして残念ながら
      一番良さげな選択肢は
      テロで断たれたわけだよ
 
 それを考えると、タリバーンの罪は重い。そして訴えを無視し、タリバーンを黙認した欧米の罪も重かろう。
 
 つまりこれはhilihiliのhilihili: マスード将軍を思い出せば答えは明らかの続き。
 
 
 
 

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