さて、アップした当初、末尾の備考で、
アッシリアからバルト琥珀産の彫像が見つかっており、この時代、中世にあったようなカスピ海、ヴォルガ川を介してバルト海へ至る交易路か、あるいは物の流れがあったようだ
と書いていたのだけども。この彫像少しおかしいのである。本当ならかなり重要なものであるはずなのに、物の記述がほとんど見られないのだ。そこで調べたところ...
∧∧
(‥ )この琥珀の彫像...
\− 偽物みたいだわ
(‥ )なんと!
googleの映像を使うと、これ
バルト琥珀から削り出されたアッシリア国王の彫像という触れ込みのこの品物。2000年に偽物だという結果が出たそうである。確かに王様の彫像にしては透明で高価な琥珀を使っていないのはおかしいかもしれない。
そういうわけで先の文章は削除。アップしてから2、3時間以内に消したから読んだ人はほぼいなかっただろう。
そしてさて、実際はどんなものであったか。
∧∧
(‥ )紀元前の青銅器時代
\− バルト琥珀はバルト海から
ポーランドなど東欧を
経由してイタリア
あるいはアドリア海に
交易されたそうですよ
一般的にこれを
アンバーロード
琥珀の道と呼ぶそうで
(‥ )んー 中世にあった
中東からカスピ海
ヴォルガ川を経由して
バルト海に至る道は
古代にはまだ
なかったのかな
バルト琥珀の産品は、ギリシャのミケーネ文明、さらには古代エジプトで知られている。しばしば透明で赤くてきれいなものがネックレスやビーズに使われ、それが遺跡や墓から出土する。
そして琥珀の遺物が見つかるのは地中海で、そこから外れたアッシリアからはほとんど産出がないそうである。
∧∧
(‥ )あれだな
\− アッシリア帝国は
基本的に西方貿易をする
国家だったのだな
(‥ )国の発展も征服も
西方だったからね
モンスーンを使えばインド洋を渡れる。これを把握してモンスーン貿易が発展し、西方世界が東方インドの胡椒を本格的に使い始めるのは紀元前100年以後のことであったらしい。
前7世紀に滅びたアッシリアは胡椒を知らなかった。それはこういう理由であった。