2015年9月29日火曜日
論理的な人間は必ず二枚舌になる
論理的な人間は必然的に二枚舌になる。
∧∧
(‥ )論理が断言出来る事は
\‐ ただひとつ
それは否定のみ
(‥ )すべてのカラスは黒い
この命題を肯定することは
不可能だ
だがしかし
否定することなら可能だ
白いカラスを1羽見つければ良い。そうすると”すべてのカラスは黒い”という命題が”間違っていた”ということが分かる。
実のところ、論理にできることとはこれだけだ。何々は間違っていた。これが論理にできるそのすべて。
∧∧
(‥ )数学ならいざしらず
\‐ 現実世界で
論理が断言できることとは
こんな程度の事柄でございます
(‥ )しかもこれ
どうでも良い内容だよな
すべてのカラスが黒いわけではないこと、そんなことは誰でも知っているし、アルビノのカラスがいるからといって、ほとんどのカラスは黒いという事実は揺るがない。
”すべてのカラスは黒いという命題は間違っている”という知識は、理解を豊かにはしない。
∧∧
( ‥)むしろ注目すべきは
論理がかように
無力なことである
(‥ )まあ別に論理のせいでは
ないんだがな
論理とはもともと
そういうものだ
悪いのは、論理的であれば正しい、とか、論理的に考えれば問題は解決できると思い込んでいる人間たちと、その思い込みだ。これは有害極まりない上にあからさまな嘘である。
∧∧
(‥ )そして論理人間は
\‐ 必ず二枚舌になると
(‥ )否定された命題しか
確かなことが言えない
そんなことを
実行している奴は
一人としていないからな
人間が何かする時には、こうであろう、という前提が必要である。この時、使用している前提にはある程度の確信が必要だ。
もちろんこれは、肯定的な前提を用いていることに他ならない。
例えば、”すべてのカラスは黒い”という前提を人は使うのである。
もちろん”すべてのカラスが黒いわけではない”という前提も使うであろう。
だがしかし、
確かな命題は、”すべてのカラスが黒いという命題は間違っている”、これだけだ。私はこれを使う。私は”カラスが黒い”という命題は使わない
なんてことはしないのである。否定された命題のみが論理的に正しい命題なのだとしても、そんな命題を人は使用したりしないのだ。
∧∧
( ‥)論理的な人間もまた同様
彼らは何らかの命題を
肯定的な前提として
動作しているだろう
しかし論理で確信できるのは
否定された命題だけである
否定された命題しか
使えないのに
何らかの命題の内容を
肯定的に前提するとは
これいかに?
(‥ )要するに論理的な人間は
二枚舌野郎ってことさ
そうでないと奴らは
動作しない
実際、彼らが二枚舌であること、少し話せば明瞭である。
論理的な人間、あるいはロジカルシンキングを信仰する人間は相手の意見を否定する時には反証を使う。
あなたはそういうが、こういう事例があるではないですか!
以上は、白いカラスが1羽見つかれば”すべてのカラスは黒い”という命題は否定される、と同様の論理的な考えだ。
だがこの後がいけない
一方、あなたは私の考えのここがおかしいと反証例をあげたが、私が思うにそれはこう考えれば説明できる。
今度のこれはあからさまに論理ではない。矛盾する事柄に補助的な仮説を導入して自説の救済を試みる。これはむしろ仮説発見とかアブダクションとか、グラフを描くとか、そういう動作である。
∧∧
(‥ )もちろん以上個々の動作自体は
\‐ 問題ないんだよね
(‥ )反証で命題を覆すのも
矛盾を補助仮説で
説明するのも
それぞれは正当だ
ただし、自分の意見を肯定する時には補助仮説を用い、他人の意見を否定する時には反証を論理的に使うとなると、これはあからさまな二枚舌である。
∧∧
( ‥)そして論理的な人間は
必ずそれをすると
(‥ )そうしないと
動作できないんだ
だったらそうするべ
現実世界において、論理で確実に言えることは命題の否定のみである。ここまで生み出すものが貧しい思考方法で現実世界を生き抜くことなどまったく不可能だ。それにもかかわらず論理人間は生きている。つまり彼らの過ちは、彼らが生きていることから明らかである。
つまり、論理的な人間が生きていること、それ自体が、論理人間が論理や論法をまったく恣意的に使い分けている証拠だ。
論理的な思考をする人間は必ず二枚舌であり、物事を恣意的に都合良く言いくるめるし、そうでないと論理的な思考を防衛することはできない。
論証されるべきは、これであった。