2015年5月25日月曜日
むしろ人間の理解は徘徊する老人である
消費者は底抜けの馬鹿だ。だから消費者向けの商品とはただひたすらに馬鹿向きに作ったものでなければならない。消費者を一心不乱に罵倒し吐き捨てること。それこそが消費者に対する親切であり愛情である。
∧∧
(‥ )どんな分野であれ
\‐ それが漫画でもアイドルでも
少し深く調べた時点で
書き手はそのことに関して
平均以上の知識と理解を
持つようになる
(‥ )だから作り手側は
絶えず
自分よりも
劣った人間向けに
ものを作ることになる
ごく単純に言えばそういうことなので、その意味において冒頭の見解は正しい。
いや、正しいというのは正確じゃない。
より正確には、”消費者は底抜けの馬鹿であり、哀れな無知蒙昧である”、これは物作りの近似値であり、近似値でしかない。
∧∧
( ‥)あなたはどんな仮説を
持ちますかね?
(‥ )知識的に言えば
人間はおじいちゃん仮説を
押すなあ
人間の脳は非常にエネルギーを食う。だから100円に相当するようなカロリーも出し惜しみする。つまり理解に100円分のエネルギーを消費するような知識や理解は拒否する。
もし、理解や把握に必要なカロリーを段差であるとした場合、人間の理解力や読解力は、おじいちゃんに該当する。わずかな段差でもそれを乗り越えることができない。事実上、平面しか移動出来ないし、バリアフリーの領域でしか徘徊できない。
∧∧
(‥ )人間の思考はおじいちゃん仮説
\‐
(‥ )読書家のじいちゃんも
駄目なんだ
読書家ってのは
恣意的な解釈で
本を読むのが普通だ
読書家は
段差を越えている
ようでいて
実際には段差を勝手に
平面化している
そう見るべきだろうな
読書とか理解は、認識論的なものだとも言える。少なくともグラフを描くとか、そういう検証手段がない場合には、それはただの認識になってしまう。
理解を恣意的に行なえば、本来は存在するはずの段差が、認識論的には消滅する。
つまり、実際には平面を歩き回っているおじいちゃんでしかないのだが、私は読書という山登りをしていますとたばかることが可能だ。読書の胡散臭さはここにある。
つまるところ、読者家の読書とは、読書自体が手抜きになっているのだ。
そして本日は打ち合わせで、こんな話が出た。
ダイオウイカの画像で深海ブームが来たけども、似たようなものはまた来るだろうか?
∧∧
( ‥)あなたは否と答えた
(‥ )ダイオウイカってな
あれは理解において
バリアフリーなんだよ
イカ、でかい、ここには既存で既知の単語しかない。理解においてバリアフリーであること明白である。
つまり、理解というおじいちゃんが徘徊することに向いた存在。それがダイオウイカであった。
∧∧
(‥ )でもダイオウイカ以外には
\‐ もうそういうのはいないよね
(‥ )だから深海ブームなんか
もうこないさね
そういえば未来生物を描いたフューチャー・イズ・ワイルドは印象的であった。なんといっても出てくるのは未来のイカ、タコ、カメ、カタツムリ。
∧∧
( ‥)全部既存の
しかも身近な動物だ
(‥ )理解のバリアフリーだよ
衝撃だったよなあ
作った人は
よく分かっているよ
感嘆を禁じえない
あれを作ったドゥーガル・ディクソンはずっと前にアフターマンを作ったことがある。あれはフューチャー・イズ・ワイルドよりもずっと真面目で、現在は目立たない動物が地球の覇者になった世界を描いている。
∧∧
(‥ )その代わり
\‐ アフターマンは
理解においてバリアフリーじゃ
なかったわけだね
フューチャーは
アフターマンの欠点を
修正してきたわけだ
(‥ )だがな
フューチャー・イズ・
ワイルドの成功で
アフターマンが
復刻されるのだけど
それを読んだ人が
フューチャーのような
ものを期待したのに
よく分からない
がっかりした
そう書いているのを
見たことがあってな
俺はびっくりしたよ
訳本を読むなら原著の出版年代もちゃんと読めよ馬鹿野郎。時代を見ればアフターマン、そしてその難解な部分を修正してきたのがフューチャーだろう? 時系列を無視して結果を遡及するんじゃねえよ、底抜けの馬鹿だなお前は。
∧∧
( ‥)とはいうものの
それこそが人々の徘徊する理解
そして平面しか移動できない
おじいちゃん思考ですか
( ‥)俺たちの理解は
‐□ 徘徊する老人である
これを忘れてはいけないな
もちろん、物作りをする上でも忘れてはいけないのである。人の理解は徘徊する老人であり、バリアフリーな領域でない限り、活動できないと。