2015年5月3日日曜日
量は質に転換できるが、質に転化せしめない量は文化でしかなく無駄である
彼らはね、僕らでは考えられないぐらい沢山の本を読んでいるんですよ!!
∧∧
(‥ )どう思います?
\‐
(‥ )個人的な見解としては
たくさん本を読むのは
ここがどこだか
分からない時なんだよね
この場合は当然ではないか? 右も左も分からない。とにかく座標を把握しないといけない。だがどの本を読んで良いのかも分からない。だって、ここがどこだか分からないのだから。
そういう時は手当たり次第だ。
手当たり次第に読んで座標と自分の位置と地図と進むべき道を把握する。そこから先は、読むべき本はもう限られてくる。
∧∧
( ‥)それを考えると
冒頭の言い様とは
(‥ )彼らは頭が五里霧中
そういうことだろ?
あるいはこういう可能性もある。
本を読んでうんちくを語ることが、社会的地位を誇示する手段になってしまっている場合。つまり悪い意味でオタク化している場合だ。
∧∧
(‥ )まあどんな分野でも
\‐ この本は読んでないと
駄目だよってものが
必ずありますが
(‥ )でもそれは
”重要なこの本を”
だよね
大量に本を読んだこと、それ自体を誇示する。それは本の価値をすべて等価にしてしまっていることと同じだ。
確かに量は質へ転換できる。だがそれは試行錯誤という、試して確認して、やってみて評価する、そういう手順を踏まえた上であろう。
量だけを比較する、量だけを見ることで本の価値を等価にしてしまうとは、そういう試行錯誤の過程がすっぽ抜けているか、あるいは軽んじられているか、そのどちらかではないだろうか。
オタクとうんちくは確かに文化的、社会的行為であるし、仲間内で社会的地位を誇示する世界では必要なことではあろう。
だが、それは同時におおいなる無駄でもある。
知性も知能も無駄なものであるから、無駄自慢それ自体は構わない。しかし、無駄には無駄以上の意味がないのもまた事実。
∧∧
(‥ )アメリカの学生さんは
\‐ 大量の本を読むのだ
日本の学生も見習うべきだ
そういう意見もありますが
(‥ )それが本当なら
俺には
どっちかというと
アメリカの知識世界が
やばい状況でーす
うんちく語りの
クジャク劇場になってまーす
と言っているように
聞こえるけどな