2014年12月19日金曜日
ありもしない体力差を人為的に作り出すべきである
こんな難しい本を読める俺はすごい、そういう無駄自慢をさせるためのアイテムとして本は作成されており、読書人は無駄自慢に必要な無駄な本を渇望する。
そうである以上、本は実用的であってはならぬ。本は無内容でなければならぬ。
”物書きとは、読書人が自分の本棚にそろえたいと思う本を書くべきである”、そう主張した以上、物書きはクジャクの尾羽にならねばならぬ。存在そのものが無駄にならねばならぬ。
すなわち、良い本とは無駄に難解で、これを読める俺様すげー! 俺様はラノベや漫画を読む凡人共とは違うんだ! そう読者に思わせるものでなければならない。
∧∧
( ‥)でも難しければ良いって
わけじゃないよね?
(‥ )本当に難しいと
本当に読めなくなるからな
実は、本当に難しい内容では駄目なのである。
実際、本当に難しい本が望まれるのなら、皆は学校の教科書と論文を本棚にそろえるだろう。
∧∧
(‥ )でもそうではないよね
\‐
(‥ )教科書が実用的という
こともあるけどもな
本当に難解な内容を
扱った本では
自慢にならないんだよ
誰だって
学校時代の挫折を
思い出したくないからな
それにだ、そもそも競い合いがあるから自慢できるのである。
誰も読んでいない本では自慢できない。これでは駄目だ。
たぶん、一番望ましい本とは、内容は単純だが、もったいぶっていて冗長なものだろう。それもくせがあるのが望ましい。
内容が単純であれば、原理的には誰でも読める
しかも、もったいぶって冗長なものであれば、無駄に体力の誇示ができる
さらにくせがあれば、それに合わない人はその本を敬遠する。だが、それに合う人はその本を読むことができる。
つまり差別化であり、自慢するためのお膳立てが整うわけだ。
∧∧
( ‥)くせのある文章を嫌って
読むのをやめる人は
一見すると
途中棄権したように
見えちゃうからね
( ‥)反対に平気な人は
‐□ 体力があるように見える
必然的に
自慢できるよなあ
実際、くせのあるベストセラー作家というのはそういうものではないだろうか?
その作家の作品を読める人は、この素晴らしさは君たちには分からないだろうなあ、と言い、その作家の”くせ”を嫌う人は、こんないかれた文章を読む奴は頭がおかしいと嫌悪する。
これは、人為的に作られた体力差ではなかろうか。
例えばこう考えてみればどう?
マラソンは内容が単純である。原理的には誰でも参加できる
マラソンはただ長いだけである。これゆえに走り抜けた人間は体力の誇示ができる。
だが、本格的なマラソンを行なった場合、走り抜けられる人間は本当にごくわずかになってしまう。これでは自慢大会にならない。そして参加者が多くなければ大会は維持できない。
なれば、誰でも参加できる程度の距離を走らせながら、参加者を人為的に選別してしまえば良いではないか。
一見すると体力差が出たかのように偽造すれば良いではないか。
例えば香水を道沿いに配備するのである。
香水を嫌う人は走るのを止める。一見すると体力が無く、途中棄権をしたように見える。
香水を好きな人は走り抜けることが出来る。一見すると体力があるように見えるだろう。
∧∧
(‥ )仕組まれた差別化によって
\‐ 人為的な格差が作られ
体力の誇示が保証される
(‥ )本当は全員走れるが
それでは
自慢大会にならない
だから人為的な格差と
ありもしない
体力差を偽造する
これで自慢大会が可能だ
くせのあるベストセラー作家に集まる賞賛と自慢と嫌悪と罵り合い、そういう場面や論評はしばしば聞くものだけど、あれは必然の理由があると見るべきなんだろう。
そして思うに
∧∧
( ‥)....これって
なんかとても良い
手段じゃありませんかね?
(‥ )思ったよりも
□‐ 素晴らしいやり方だな
考えさせられる
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