2014年12月19日金曜日
そうか、あなたはクジャクの尾羽になりたいのだな?
∧∧
(‥ )この本は本棚に並べても良い
\‐ そう思わせたら
物書きの勝ちであり
それが物書きの真髄であると
(‥ )本を売るという
視点からすれば
それはまったく
正しいことであろうなあ
問題があるとしたら、読書家たちが、これは本棚に並べる価値がある、そうわざわざ思う本とは一体なんであろうか? ということで。
∧∧
( ‥)本の価値とは何か?
実は本が持つ最大の価値とは
”これを持っていると文化的に
箔がついたと思われる”
そう皆が思う点にある
( ‥)読書家って連中が
‐□ 本に対して抱く価値とは
クジャクの尾羽でしか
ないわけだよ
見てくれは綺麗だがまったく実用的な価値を持たないもの。それが本であった。
実用的な価値を持たないにも関わらず”価値”を持つ。それを実現するには、本は無駄そのものにならねばならぬ。内容に現実的な意味があっては駄目なのだ。
読書という行為そのものが無駄なカロリーの消費でなければならぬ。
読書という行為それ自体が無駄になるためには、本の内容はもったいぶった無駄そのものでなければならぬ。
∧∧
(‥ )こう言うと激怒する人が
\‐ いるだろうけどね
(‥ )だがな
読書人や知識人たちは
あれほどの本を
読んでいるのに
言っている知識や理解が
間違いだらけなのだ
いやむしろ、理解は人の数だけある、そう、うそぶくことで現実への収束を積極的にこばんでいる。
それはいわば走行テストとは文化のひとつでしかない、そう主張することで、走行に耐えられない自動車を、あえて買うことと同じだろう。
見てくれだけは良く、高価なだけで走れない自動車。それが本である。
それを高額で購入することを正当化する。それが物書きの主張であり、読書人の要望である。
その時、本は、そしてその自動車は経済力を誇示するためだけの道具となる。
経済力を誇示する道具である以上、その自動車に実用的な意味があってはならないのである。同様な理由で、本に内容があってはならない。
本に内容があると思わせることは必要だが、実際にはあってならぬのだ。
∧∧
(‥ )本とはまさに
\‐ その目的のためだけに
存在している
(‥ )俺はこんなに
難しい本を読むだけの
体力を持っている
その誇示を行なう
そのためだけに
本を買って読むし
そうである以上
本に実用的な価値が
あってはならぬのだ
∧∧
( ‥)つまり冒頭の言葉
これは私の本棚に
並べる価値がある
読書家にそう思われる本を
私は書くぞ宣言とは
(‥ )俺は無駄で無内容な本を
小難しく書くぞー
そういう宣言だろうな
俺はクジャクの尾羽になるぞ
宣言だと言っても良い
そうか、あなたはクジャクの尾羽になりたいのだな? 物書きとしては極めて潔いじゃないか。そしてあなたは確かに正しい。