2014年8月3日日曜日
本は引用の結節点
なぜ本を読む人間は、その一冊の本を読んだけで、その本のことを分かった気になれるのか?
∧∧
( ‥)謎だと
( ‥)一冊の本は
‐□ ごく短い内容しか
持っていないのだ
1ページ1000文字で200ページでも、わずか20万文字にしかなれない。こんな短い内容で物事を説明するのは無茶も良いところだろう。それは抜粋にしかならない。ましてや、普通の本はこれよりもっと内容が薄いのだ。
∧∧
(‥ )言い換えれば
\‐ 本というものは
すべからく要約であると
(‥ )本は引用の集合体だ
一冊の本を作るためには
膨大な積み重ねがある
言うなれば、一冊の本とは果てしない引用と、それが織りなすことで出来たネットワークの一部、単なるひとつの結節点でしかない。その結節点を見ればその有様が分かるようでいて、しかしそれは分かったとは言わない。新宿駅だけを見ても新宿駅のことなど何も分からん。それと同じ。
それにしても、一冊の本を読んでその本のことを分かったと思い込む連中が、これほどまでにうじゃうじゃいるのはなぜか?
ははーん、多分、あれだ、小説という消費者向けに単独で完結した物語を読んでばかりいるうちに、読書家って連中は頭がぼけたんだな?
∧∧
( ‥)そんなことあるわけないじゃ
ないですか
( ‥)小説も
‐□ 引用の集合体だからな
小説もパクリの連鎖だと思えばいい。引用し、織りなし、そして本人の独自性が入って作られた何か。そしてまた前の作品の影響を受けて作られたネットワークの一部。
それゆえ、一冊の小説を読んで、それを論評するなど、これまた愚の骨頂。
∧∧
(‥ )まあ、でも楽だからね
\‐
(‥ )楽なことをするのは
当然だけど
楽なことばっかりすると
知らんうちに
頭がぼけちゃうぞ
というか、使っている部分が偏りすぎて、どんなことをしても同じ手続きでこなすようになってしまうと言えば良いか。こういう場合、なんでも分かるが実は何一つ分かっていない、という状況になるだろう。