2014年7月15日火曜日
読書家の脳神経がただの”ふるい”になっている可能性
スポーツや科学には勝負があり、ルールがあり、判定があり、測定がある。
∧∧
(‥ )でも読書を含めて
\‐ 一部の文化的行為や
学問にそういうものは
存在しない
(‥ )そういう時
判断とはどうしたら
良いものか?
まあ、これに関してそんなに悩む必要はない。
∧∧
( ‥)判断の基準は
整合性でしょうね
(‥ )パズルを組み立てることと
まったく同じだな
手がかりの整合性から
組み立ての妥当性を
判定している
文化系の物事は理系よりも複雑なのだ、という人もいる。これ自体は事実でありうる。実際、物理は正確な予測がかなり可能だが単純な系しか扱えない。化学だと状況は複雑になり、生物学だと複雑な系を扱えるが予測には相当なぶれが入ってくる。
∧∧
(‥ )ましてや生物の営みである
\‐ 人間社会となりますとね
(‥ )だがそれでもなお
我々が判断できる程度の
予測が立つ事
これは明らかであるし
これを否定するのは
明らかな誤りであるな
実際、私たちは絶えず判断を下している。もし仮にだ、複雑な状況では判断に意味が無くなる、判断が収束することはありえない、というのなら、そもそも私たちは判断をしないはずだ。いかなる判断を下しても意味はなく予測はまったく成立しないからである。予測のない世界に判断はありえない。
言い換えると、私たちが”判断する”とは、この複雑に見える世界においても、答えがある程度決まっているし、予測可能であることを示している。
これは、どんな物事でも成り立つし、読書だってそうである。そもそも本というものが整合性に基づいたものだからだ。
∧∧
(‥ )回想とかで設定を
\‐ 後付けすることもあるけどね
(‥ )漫画とか長期連載で
ありがちなやつね
だが、こういう後付けも、他から突出してしまった物語の部分を、パズルのピースを付け加えることで整合性を調整した結果でもあるのだ。
∧∧
( ‥)整合性は基準として
非常に重要なものなのである
(‥ )まあそういうことだな
言い換えると、読書というものも、整合性がないと意味がない、ということだろうか。
∧∧
(‥ )でも読書している人からすれば
\‐ どんな独りよがりの感想文でも
自分の中では整合しているかも
ですよ
(‥ )ああ、しかしそれは
整合性の問題というより
検証が動作していない
事例だろうな
人によっては独りよがりな感想は”恣意的”なのだ、と言うのだろうけども。
∧∧
( ‥)あなたに言わせれば
恣意的なのは問題ないと?
(‥ )というか順序が逆だと
言えば良い?
1から9まである証拠のうち、2と5だけを取り上げて感想文というお話を作り上げたとする。
∧∧
(‥ )でもそういう感想文は
\‐ 2と5以外残り7つの
証拠を持ってくれば
容易に破壊できるよね
(‥ )容易に破壊できるような
偏った証拠の
抽出をするから
恣意的だと言われるし
恣意的な解釈とは
容易に破壊できる
証拠の選択だとも
言えるよね
つまり、少なくともこの意味において、恣意的であること自体は問題ない、ということでもある。実際、我々は何らかの主観なり仮説なり解釈に基づいて作業しなければならない。つまり恣意的でなければならないし、あらかじめそれが恣意的であると知ることもできないのだ。
これを言い換えれば、作業する時には、それが恣意的かどうか思い悩む必要は取りあえずない、ということでもある。
要するに取りあえず結論してみてから、さらに証拠をもっとたくさんもってくれば良い、それだけなのだ。そして、それで破壊されるようなもろい解釈は、そもそも証拠の選び方が非常に偏っていたということになる。それが恣意的、ということであって、検証の過程さえうまく動作できれば恣意的な仮説はおのずと排除される。
∧∧
( ‥)つまり恣意的な解釈は
物事を始める時には
むしろ必要
証拠集めと検討さえ
ちゃんと出来れば
淘汰されるはずだ
(‥ )それなのに恣意的な解釈が
出現する
これはその人の中では
検討や検証、証拠集めが
うまく動作していない
そういうことなんだよな
恣意的かどうか? そんなことどうでも良いことなのだ。検証作業があるかどうか、それが正しく動作しているのか? 基準が存在するか? それこそが重大だ。
そして確かに、読書量は多いのだが妙に読む速度が速い人がいる。そしてそういう人の感想文が奇妙に紋切り型で、なおかつ恣意的に見える、ということがある。これは本を読んで本同士を付き合わせて内容を検討する、という動作がすっぽり抜け落ちた結果ではないのか?
∧∧
(‥ )それこそ恣意的に抽出して
\‐ まとめているだけだと
(‥ )確かにそれだと
”作業自体”は速いのだ
つまり
読書家っていうのは
脳神経がただの
”ふるい”になって
しまっている
その可能性だね
たぶん、学問領域にもよるが大勢の研究者もそうなっているのだろう。事実、歴史的な著作が誤解されてきた有様を見ればそれは明白であろう。読んで理解しているが、読んでいないし理解もしていないのである。